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第012回 2006/03/01
ホワイト・ハウスのカザルスと「鳥の歌」

DISC12

米コロムビア KL5726
『コンサート・アット・ザ・ホワイト・ハウス』

フェリックス・メンデルスゾーン「ピアノ3重奏曲第1番ニ短調 作品49」/フランソワ・クープラン「チェロとピアノのための演奏会用小品集/ロベルト・シューマン「アダージョとアレグロ 作品70」/カザルス編「鳥の歌」

アレクサンダー・シュナイダー(vn), パブロ・カザルス(vc), ミエチスラフ・ホルショフスキー(p)
(録音:1961年11月13日 ホワイト・ハウスでのライブ)


 1961年11月13日、月曜日の夜、かなり盛大なアフターディナー・コンサートが、アメリカ合衆国大統領官邸、ホワイト・ハウスのイースト・ルームで開催された。
 ホストは、時のアメリカ大統領、35代目に就任したばかりのジョン・F・ケネディ、演奏するアーテイストは世界的チェリスト、パブロ・カザルス、当時84歳だった。この会場には、当時のアメリカを代表する錚々(そうそう)たる音楽家、サミュエル・バーバー、アーロン・コープランド、ハワード・ハンソン、カルロ・メノッテイ、ウオルター・ピストン、ウイリアム・シューマン、ヴァージル・トムソン、レナート・バーンスタイン、ユージン・オーマンデイ、そしてレオポルド・ストコフスキーら多数が列席した。
 カザルスがこのホワイト・ハウスのイースト・ルームで演奏するのは、この時が最初ではない。ケネディが、開演前、わざわざ紹介したように、ウイリアム・マッキンリー大統領の1898年と、テオドール・ルーズベルトの1904年に、それぞれ1回づつ演奏しているので、これが3回目であった。
 実はその間、スペインの内乱によりフランコ独裁政権が樹立され、カザルスは、この新政権には終始断固反対すると共に、各国政府が次々に新政権を容認する態度に抗議すべく、一般公開演奏の停止宣言をしていた。
 しかし、就任早々の若きアメリカ大統領ケネディの強い要請に対し、同大統領の世界平和に対する強いコミットに期待しつつ、この申し出を受入れ、老骨に鞭打ってホワイトハウスに出かけることにしたのである。(ちなみに、この同じ年の4月、カザルスは、愛弟子 平井丈一朗の帰国演奏会をサポートするため、フランコ容認を理由に一切の演奏を拒絶していた日本への初来日を果たし、平井のために東京と京都で指揮をしている。その後、2度と日本を訪れることはなかったが。)
 ホワイト・ハウスでのコンサートのためにカザルスが相方に選んだのは、古くからの盟友、ピアノのホルショフスキーと彼を通して知り合ったブダペスト四重奏団のメンバー、ヴァイオリンのアレクサンダー・シュナイダーで、この3人は、1950年、カザルスが主催していたプラドでの音楽祭以来の頗る気心の合った仲間でもあった。

 演奏会に先立って、ケネディは極く短い挨拶の中で、音楽の国際社会に対する役割の重要性とともに、カザルスの世界平和と自由に対する大いなる貢献を強調した。
 このレコードは、このホワイト・ハウスでの演奏会を収録したものである。演奏会は、メンデルスゾーンのピアノ・トリオ第1番で始まった。 この作品は、20世紀前半に、コルトー、テイボーと組んだ黄金トリオでも録音を残しているが、カザルスの得意とするレパートリーであり、このコンサートのメイン・ピースでもあった。
 メンデルスゾーンの室内楽の中でも筆者の最も好きな曲であり、しなやかで楽しさにあふれた名曲である。ここでのカザルスも、のびのびとした気分で弾いていて、いかにも気心の合った3人がこの曲の気分に寄り添うように演奏している雰囲気が伝わってくるようだ。演奏会は、クープラン、シューマンと続いて最後が、有名な「鳥の歌」で締めくくられる。
 この曲は、カザルスとは切っても切れない愛奏曲となっていたが、元々彼の生地カタロニア地方の民謡をカザルスが編曲したもの。自身の説明によれば、「私は、カタロニアの古いキャロル“鳥の歌”のメロデイでコンサートをしめくくることにしています。その歌詞はキリスト降誕を歌っています。生命と人間にたいする敬虔な思いにみちた、じつに美しく心優しいことばで、生命をこよなく気高く表現しています。」と述べ、また故郷カタロニアについて「この歳になるまで いくつもの国を訪れ、たくさんの美しい土地に出会った。でも私の心に刻まれたもっとも純粋に美しいところはカタロニアだ。目を閉じれば、(1つ1つの特定場所を列記する)カタロニアは私の生まれ故郷だ。カタロニアは母のように慕わしい・・・」。(何れも、ちくま文庫版 パブロ・カザルス「鳥の歌」池田香代子訳)
 生涯を通して決して戻ることはなかった望郷の思いと平和への強い願いをこめて、わずか3分そこそこの短い小品ながら、彼が大統領に一番聴いて貰いたかったのは、この曲ではなかったのか。この録音からはカザルス渾身のボーイングの響きと共に、彼自身の物凄いうなり声まで聞き取ることが出来る。
 1971年10月、94歳のとき、ニューヨークの国連本部での演奏会でも、「鳥の歌」を取り上げ、「自分の故郷カタロニアでは、鳥はピース、ピースと鳴くのです」と語って演奏したのが、語りぐさとなっている。このときの模様は全世界にテレビ中継された。

 表紙の写真は、マーク・ショウによるもの。多分、最後の「鳥の歌」の演奏前の情景であろうか。正面席には、ケネディと1人おいてジャックリーヌが、ケネディの左、1人おいてちょっと横向きに座っているのは、多分ストコフスキーであろう。
 それにしても深々と頭を下げて挨拶をする老雄カザルスのがっしりとしたまるで農夫のような背中が印象的である。
 周知の通り、大統領ケネディは、この演奏会のほぼ2年後の1963年11月22日、凶弾に倒れ、カザルスの抱いた期待も露と消えてしまったが、実は、ケネディが亡くなる直前、63年の夏、大統領がプエルトリコを訪れたとき2人は再会している。ケネディは、カザルスに“自由のメダル”を授与すべく、もう一度ホワイトハウスへ招待したが、その機会は大統領の死によって永遠に実現されることはなかった。カザルスの自伝「ジョイズ・アンド・ソロウズ」のほぼ最後に、このケネディに対する哀悼の意とともに深い無念の情が述べられている。
 しかし、カザルスの平和への運動は以降も決して途絶えることなく、それから10年後の1973年、心臓発作で96歳の大往生を遂げるまで続けられた。
 1950年代以降、アルベルト・シュヴァイツアー博士とともに、米ソ両国に対して始められた核実験廃絶運動にも、終始徹底して注力した生涯であった。
 そのカザルスが逝って早や30年以上、死して漸くカタロニアに戻り今や故郷ベンドレルの墓地に埋葬されているが、今年12月には巨匠の生誕125周年がやってくる。