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第017回 2006/05/11
ドイツの巨人ギーゼキングによるドビュッシーの「前奏曲集」

DISC17

米エンジェル 35066(第1集)35249(第2集)
クロード・ドビュッシー
『前奏曲集 第1集/第2集』

ヴァルター・ギーゼキング(p)

(録音:1953年8月15〜16日(第1集)/
    1954年12月9〜10日(第2集) ロンドン)


 今年は、20世紀ピアノ演奏史上画期的な影響を与えた巨匠ヴァルター・ギーゼキングが亡くなって50年になる。
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンから始まって、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ショパン、ブラームス、グリーク、チャイコフスキー、フランク、そして近代のドビュッシー、ラヴェル、シェーンベルグ、ブゾーニ、スクリァビン、ラフマニノフ、ヒンデミット、オネゲルに至る驚くべき広範囲なレパートリーにおいて、信じられないほどの記憶力を駆使して譜面重視の正確無比なピアニズムを示したギーゼキングの弾き方は新即物主義と呼ばれ、以降幾多の追従者を生むこととなった。しかし、その演奏は決して無味乾燥な機械的で冷たいものではなく、実に生き生きと血の通った説得性のあるものだった。
 ギーゼキングは、また、メージャーとはいえないドイツのグロトリアン製のピアノを生涯愛用したことでも知られる。その特徴であるくすんだ感じのやや地味な音色が彼の好みに合ったのであろう。

 1895年、ドイツ人の両親のもとで、フランスのリヨンで生まれる。父は、医者で昆虫学者だったというが、彼がフランス生れで、16歳まで南仏リヴィエラで過ごしたことは、自伝でも述べている通り、生涯、フランス文化に対する尊敬の念と共に親近感となってその後の演奏に多大の影響を与えた。正規に音楽教育を受けたのは、1911年、16歳のとき、母の故郷ドイツのハノヴァーに移ってからで、年齢的には決して早くはなかったが、ここの音楽院に入学して、生涯の師、カール・ライマーと出会うことになる。1858年生まれのライマーは、優れた教育者であり、徹底した耳の訓練と暗譜を重要視し、あくまで楽譜に則した演奏を目標とし生徒にも厳しく指導した。
 そうした師の教育の成果もあってか、ギーゼキングの暗譜による作品の把握力はとくに素晴しいものだったらしい。全く新しい当時の現代作品でも、数時間あれば、コンサート会場に移動するたとえピアノのない汽車の中などでも全てを暗譜してしまい、しかも完璧に演奏し終えたという。デビューは、入学4年後の1915年というから、長足の進歩である。ただし、やがて第1次世界大戦が勃発。戦時中は軍属配置となったため、本格的演奏活動は、戦後1920年以降になってからだった。1923年イギリスで、1926年には、アメリカでデビューを果たしたが、人気はスタートから上々だった。
 1930年以降、師のライマーとともに、幾つかのピアノ演奏法に関する著作を出版、とくに邦訳もされた「現在ピアノ奏法」は、新即物主義に基づく名著と言われ、19世紀に一世を風靡したような勝手気ままで楽譜などあってなきが如き恣意的傾向の残っていたピアノ演奏界に強烈な一石を投じた。
 1939年、世界は第2次大戦へと突入、ギーゼキングは 大戦中ドイツ国内に留まったことに対しナチス政権に協力したとして、終戦後、2年間の活動停止処分となるが、47年、楽壇に復帰。当初アメリカやフランスでのボイコット事件などもあったが、彼の実力と名声は、揺ぐものではなかった。
 1953年3月に来日し、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ドビュッシー、ラヴェルからラフマニノフまで幅広く披露。たまたま、初日の3月16日、日比谷公会堂で開催されたコンサートを実際に聴かれた作曲家、増田宏三氏の感想を引用させていただく。
 「そのとき彼は、57歳。三太夫然とした風貌−見事にハゲ上がった円い頭、豊かな頬、温厚そのものの微笑をうかべて、巨体をしずしずとピアノへ運ぶ。そっけない一礼の後、ピアノの前に座ると、何とピアノが小さく見えたことだろう。野球のグローブのように大きい手、ずんぐりと太い指、両手を鍵盤上約十センチのところへ持って行って静止の後右手の手のひらで包み、・・ これを数回、・・またにぎりなおしの仕切り直し。・・ モーツアルトのイ短調ソナタがはじまったとたん、会場は甘くつややかな響きに包まれた。ペダルをほとんど使わず微妙なニュアンスをすべてタッチで弾きわける。各声部は、それぞれ別の楽器のようにその役割を守る。まるでオーケストラのようだ!一点のにごりもない透明な響き、その柔らかさ、温かさ、豊かさ。彼の演奏が決して世上言われるノイエ・ザッハリッヒカイトの冷たさ、無愛想さをもつものではないことはこの演奏でよくわかる」(「音楽現代」誌 昭和57年4月号)(ちなみに、この前の年、コルトーが、翌年54年には、バックハウスとケンプが相次いで来日し、日本のピアノ・ファンにとっては素晴しく実り多き時期だった)
 しかし、その3年後の1956年、ギーゼキングは、交通事故が原因で手術のかいもなくロンドンであっけなく急逝。戦争も終わり、これからという絶頂期でもあり、世界の音楽ファンから大変に惜しまれた死であった。

 さて、この度取り上げたドビュッシーの前奏曲集は、このギーゼキングが最も得意としたレパートリーの1つである。尊敬するショパンにあやかって作曲されたこの作品集は、作曲家ドビュッシーにとって、「牧神の午後への前奏曲」(1894)以降追求してきた印象主義的技法の集大成であると共に、近代ピアノ音楽分野での最高傑作の1つとされる。フランスの劇作家兼評論家シュアレスは、その著「ドビュッシー論」で、この作品集を、和声、構図、様式において、ショパン、シューマン、リストを超えるとし、特に第1集の「沈める寺」第2集の「月の光がそそぐテラス」は、ベートーヴェンの後期の傑作、31番と32番のピアノ・ソナタ以来の傑作と絶賛している。第1集は1910年、第2集が1912年の作。
 第1集では、ほかに「亜麻色の髪の乙女」、第2集では「水の精」「花火」などが特に有名で、単独でも演奏される。この前奏曲集には、他の作曲家によるものと異なり、このように各曲に作曲者による標題が付けられているが、冒頭ではなく、末尾にカッコに囲まれて控え目に記載されている。これは、標題音楽ではないため、聴き手に先入観を与えないためと言われるが、かといってこの標題をまったく無視するわけにもいくまいと思われる。
 ギーゼキングの演奏は、やや淡白ではあるが、技術的には完璧。研ぎ澄まされた精密で鋭利な感覚は全く現代的で、しかも、どの曲の場合も全体的構成に対する明快な洞察力が示されている。半世紀以上にわたり常に標準とされてきた歴史的名演と言われる所以であろう。例えば、「沈める寺」、この曲は、住民の無信心によって海に沈んだ寺院が、時々海上に浮かび上がっては鐘を鳴らし、再び沈んでゆくというブルターニュ地方の伝説を題材にしたものだが、ギーゼキングは、かすかな海のざわめきから始まり、やがて鐘の音の高まりとともに聖歌の大合唱、一旦静まって再び波間へと吸い込まれてゆく過程をピアノの細やかなタッチ、鮮やかな和声、そして強大なダイナミズムによって実に的確に描きわけていく。

 ジャケット上の有名なドビュッシーの印象派風な肖像画は、マルセル・バッシェによるもので、1884年に描かれた。当時ドビュッシーは22歳、カンタータ「放蕩息子」により念願のローマ賞を受賞し、パリ音楽院を卒業したころだった。
 尚、同曲集のアメリカ・コロムビアから発売されたレコード(ML4537/ML4538)用ジャケットも合わせ掲載したい。こちらは、クライン−モノグラムによる幾何学模様だが、優れたデザインである。