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第026回 2006/08/24
巨匠ホルショフスキー、世界最古のピアノを弾く

DISC26

米メトロポリタン・ミュージアム・オブ・アート MMAL1803
ルドヴィコ・ジュステイーニ
『4つのソナタ 1番(ト短調)、4番(ホ短調)、7番(ト長調)、10番(へ短調)』

ミエチスラフ・ホルショフスキー
(クリストフィオーリ製ピアノフォルテ)

(録音:4番/10番─1977年9月19日
    1番/7番─1978年1月30日
何れもニューヨーク、メトロポリタン美術館内のアンドレ・メルタン・ギャラリーにて)


 連日、鬱陶しい梅雨空を眺めていると、何故かニューヨークのアップ・タウン、薫風薫る青葉若葉に覆われたセントラル・パークの一角にあるメトロポリタン美術館付近を思い出す。
 この世界でも有数の広大な敷地をもつ美術館には、膨大な絵画、彫刻、工芸品などのコレクションと共に、素晴しい楽器専門館があって、ここにはクレモナの弦楽器など幾多の名品と一緒に、クリストフィオーリ製ピアノフォルテと呼ばれる1720年製の世界最古のピアノが展示されている。

 時は17世紀の終わり、イタリーのパドヴァでハープシコード製作業者だったバルトロメオ・クリストフィオーリ(1655〜1731)は、フェルディナンド大公に召し抱えられることとなり、宮廷用楽器製造のためフローレンスにやってくるのだが、早速ハンマー・メカニズムを取り入れた鍵盤楽器の開発を始め、苦心惨憺の末、1709年に完成された試作品がピアノフォルテと呼ばれるもので、これが世界のピアノ第1号となった。じつは、このころ既に存在していたクラヴィコードより、強力で大きな音が得られ、しかも指の叩く強さに応じて音の強弱が調節出来るような鍵盤楽器が広く求められていたのである。
 この美術館に飾られているクリストフィオーリ製ピアノフォルテは、現在世界に残されている3台の中の1つだが、鍵盤数は54で、ペダルはない。ハープシコード同様、細い金属線が張られているが、1つの音(鍵)に対し2本が使われる。ただ当時としては、製造工程が複雑で、値段も高く、直ぐに普及するという訳にはいかなかったようである。
 その後、ほぼ300年、主にアクション部分(大きくウィーン式の跳ね上げ方式とイギリス式の突き上げ方式の区別があった)を中心に少しずつ改良が加えられ、現在、我々がコンサート・ホールなどで見ることが出来る黒塗りのスタインウェイやベーゼンドルファー、あるいはベヒシュタインに代表されるようなグランド・ピアノが完成するのは、19世紀もほぼ末期になってからだった。
 途中、画期的な出来事を概観してみると、1736年、ドレスデンのジルバーマン(ウイーン式)が製作したピアノをJ.S.バッハが試奏し、47年には、このピアノで自作の「音楽の捧げもの」を演奏。1782年、モーツアルトがヴァルター(ウイーン式)のピアノを所有。1809年、ベートーヴェンがシュトライヒャー(ウイーン式)のピアノを使用して「皇帝」協奏曲を作曲。1818年には英国のブロードウッド(73鍵イギリス式)が自社製の最新ピアノをベートーヴェンに献呈し、最後の3大ピアノ・ソナタ30/31/32番は、このピアノから生まれている。19世紀前半は、フランスのメーカー、エラールとプレイエルが互いに競い合って機構的改良に努め、エラールをリストが愛用し、プレイエルはショパンの終生の愛器となった。

 さて、この美術館にあるピアノフォルテは、19世紀の終わり、アメリカの富豪によって寄贈されたものだが、第2次大戦後、当時楽器館の学芸員、ウインターニッツ博士は、この楽器を使用したコンサートを企画し、ピアニストのミエチスラフ・ホルショフスキーに相談する。彼は、直ちに興味を示し、1952年、自身の演奏によるコンサートが実現の運びとなったが、そのとき取り上げられた作品も、本レコード同様、ジュステイーニの曲だった。

 さて、このホルショフスキー、1987年、95歳のとき、東京お茶の水のカザルス・ホールの落成記念に初来日し、バッハ、ショパン、ヴィラ=ロボスなどを演奏して、多くの日本人に大きな感銘を与えたことで知られる。このときの演奏は全て収録され、現在日本でCDでも発売されている。(ミエチスラフ・ホルショフスキー「カザルス・ホール・ライブ 1987」BMG JAPAN BVCC-34130/1)

 1892年、当時ポーランド領だったリヴォフ生まれ。4歳からピアニストだった母の個人レッスンを受け、神童の名をほしいままにする。ちなみに、母は、ショパンの愛弟子、ミクリの教え子だったから、ホルショフスキーはショパン直系の曾孫弟子になるのだが、1899年から、ウィーン音楽院で、名教師レシェティツキの指導をうけているので、一般には、レシェティツキ・スクールということになっている。1901年、9歳のときワルシャワで公式デビューし、1906年には、ニューヨーク・カーネギー・ホールでデビューし、一躍楽壇の寵児となるが、1911年、演奏活動を休止。パリのソルボンヌ大学で、哲学、文学、美術を学ぶが、カザルスのすすめで演奏に復帰。40年以降はニューヨークに定住し、42年以降、カーテイス音楽院でピアノ科教授として指導に当り、彼の門下からは、リチャード・グート、ピーター・ゼルキン、ペライヤなど、幾多の俊才が輩出した。他方、カザルス、シゲティなどと室内楽にも熱心に取り組み、63年以降は、室内楽中心の音楽祭、マールボロ音楽祭の常連となる。
 再び、大きくクローズアップされたのが、1983年、91歳のとき参加したオールドバラ音楽祭だった。かつて鳴らしたヴィルチュオージティ(妙技性)は完全に影をひそめ、真に年輪を重ねた名技というべきか、正確なタッチで弾き出される滋味豊かな深々としたソロ演奏が大いに注目された。正に「ホルショフスキー・ルネッサンス」の開花であり、これを機に以降人気が急上昇する。そして、1987年の初来日。1992年には、カーネギー・ホールでの100歳記念コンサートが企画されたが、残念ながら直前にキャンセルとなり、翌1993年5月、心臓マヒのため惜しまれて他界。世界最高齢の名ピアニストは、101歳の誕生日を目前に90年に及ぶ長い演奏家人生に終止符をうった。

 さて、この記念すべきレコードは、ホルショフスキーが1977/78年、クリストフィオーリ・ピアノフォルテを自ら弾いた大変に珍しい録音で、作品は、全てジュステイーニのソナタが取り上げられている。
 作曲家兼オルガニストだったジュステイーニは、バッハやヘンデルと同じ1785年の生まれ。クリストフィオーリの仕事場があったフローレンスからほど近いピストイアに住んでいて、この新しい鍵盤楽器、ピアノフォルテのために、当レコードで演奏されている4曲を含む全12曲のソナタが特別に作曲された。タイトルは、「弱音と強音を伴うハープシコード、一般的にはハンマーをもつハープシコード―のためのソナタ」となっている。ソナタとはいっても、いわゆる典型的な“ソナタ・ダ・カメラ”であり、多くの場合、緩やかな序曲を含む当時流行の種々の舞曲から成る楽章で構成されていて、ピアノフォルテのための作品である以上、当然のことながら、フォルテ、ピアノ、ピウ・ピアノなどの記号がふんだんに現れる。
 ホルショフスキーの演奏は、こうした作品の場合も、決して手抜きせず、きっちりと正確に弾いているが、決して学術的な無味乾燥なものではない。録音時、既に85歳になっていたが、あくまで表情が若々しく音楽は躍動し、いかにもイタリア風によく歌っている。しかもその中に洞察の深さと品格の高さを感じさせるのは、演奏家ホルショフスキーの優れた芸術性と共に、彼自身この楽器と作品の双方に十分通暁していることによるものであろう。音色も、ハープシコードというよりは、ハープという感じの響きで、現在のピアノにはない独特の美しさが感じられる。録音は、メトロポリタン美術館の一角、アンドレ・メルタン・ギャラリーで行われた。

 ジャケットは、デイヴィッド・クオッケンブッシュによるクリストフィオーリ・ピアノフォルテ。あらためて眺めてみると、ややスリムだが、引き締まったエレガントな美しい姿体のピアノであることがわかる。