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第035回 2006/12/25
頑張れ!バレンボイム─混迷の中東情勢に響く「第九」

米ワーナー・クラシック CD 256463927-2
ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン
『交響曲 第9番(合唱)ニ短調 作品125』

デノケ(S), マイヤー(Ms), フリッツ(T), パーペ(Bs)
ベルリン州立歌劇場合唱団&ウエスト=イースタン・デイヴァン・オーケストラ/ダニエル・バレンボイム(指揮)

 

(録音:2006年8月27日 ベルリン)


 2006年も早や年の暮、「第九」の季節が訪れるのは恒例としても、このシリーズ、また「第九」?という声が聞こえてきそうである。左様。実は、前シリーズで、フルトヴェングラーのバイロイト祝祭劇場オーケストラ/合唱団による「第九」を取り上げたので、通算だと今回は2度目の「第九」登場ということになる。星の数ほどある名曲の中から、2度というのは確かに問題かもしれないが、それ相当の理由があれば、赦して頂けるのではとも思う。何と云っても、天下の「第九」でもあることだし。
 では、何故選りに選ってバレンボイムの「第九」なの?となりそうだ。何十年か前は、確かに若きプレイボーイとして知られたピアニスト兼指揮者であり、実はかく申す筆者も、あまり好きな音楽家ではなかった。理由は、あまりに個人的な瑣末なことでもあるので、ここでは云うまい。肝心なことは、現在の彼がどうなのか?ということであろう。 

 ダニエル・バレンボイム。1942年、ブエノスアイレス(アルゼンチン)の生まれ。
ピアノは教師だった両親から直接学んだが、7歳のときオール・ベートーヴェン・プログラムでリサイタルを開くほどの神童だった。ユダヤ系だった一家は、彼が10歳のとき、イスラエルに移住し、引き続き、ザルツブルグ、パリ、ローマで学ぶ。ピアノは、エドウィン・フィッシャー、作曲・楽理はナディア・ブーランジュ、指揮はマルケヴィッチやカルロ・ゼッキらが先生だった。
 ピアニストとしてのデビューは、1952年、10歳のときウイーンとローマ。次いで54年、12歳のときには、初レコーディングを行っている。このころの彼に最も強烈な影響を与えたのが、54年ザルツブルグ音楽院在学中に接したフルトヴェングラーだった。この偉大な巨匠からも認められ、翌55年のシーズンに2人は共演することになったが、巨匠の死によりその実現は不可能となる。しかしフルトヴェングラーに対する敬愛の気持はその後も決して失われることはなかったようだ。
 指揮者としては1962年にイスラエルでデビュー、65年以降イギリス室内管弦楽団を指揮して大成功を収める。以来、世界の一流オーケストラに客演後、75年、パリ管弦楽団の常任指揮者に就任し、89年までその地位につく。91年以降は、ショルティを継いで、当時世界最高レヴェルと云われたシカゴ交響楽団の音楽監督に就任、翌92年以降はベルリン州立歌劇場の音楽監督も兼務し、傍らベルリン・フィルへ頻繁に客演する。初来日は66年だった。67年には、英国の天才チェリスト、ジャックリーヌ・デュプレと結婚したが、彼女は71年、脳脊髄硬化症のため演奏活動を停止せざるを得なくなり、87年に42歳の若さで死去。この前後は、彼女を交えた室内楽にも注力し、多くの名録音も残している。
 現在でも指揮とピアノ両面で大活躍中、表現は基本的にはロマン主義と云われるが、得意とする分野も古典派以降、後期ロマン派までが中心、最近はとくに巨匠の風格とともに一段とスケールの大きさが目立ってきた。

 話題は変わり、ここで中東情勢に目を転じてみよう。東西の冷戦終結後、国連などが中心となって国際平和の実現に努力中なるも、一向に捗っている気配はない。その最大の火種は、中東であり、中でも根深いのはイスラエルとアラブの対立が続くパレスティナ問題であろう。
 その歴史は、気が遠くなるように長い。BC1000年、ダビデによるイスラエル統一に始まる歴史は、やがてローマ支配時のユダヤ人離散(ディアスポラ)によって、この地はアラブ系住民が住むようになり、最終的にはイスラムのオスマン・トルコにより征服される。19世紀中ごろからシオニズム(郷土復帰運動)が盛んになりユダヤ人が少しずつ入植を開始、1922年から47年の英国委任統治時代には英国の優柔不断な態度もあって入植ユダヤ人と地元アラブ人の衝突が激化。第2次大戦後の47年、国連によるパレスティナ分割決議採択により、翌48年、全アラブ猛反対のなかでイスラエルが独立。イスラム系アラブ人の土地とされた地域に新しく異教徒の国イスラエルが建国されたのである。
 その後、56年、64年、67年、73年にイスラエル対アラブ間の中東戦争が勃発。イスラエルとパレスティナ解放機構(PLO)は、その都度何らかの合意はあっても、未だ解決への道は全く程遠い状況にある。生活権をかけた土地の帰属問題に、宗教闘争が絡むのでその解決は容易ではないし、更に中東問題は、このユダヤとイスラムの対立に加え、イスラム内部でもスンニ派とシーア派の対立、さらにクルド人を含めた民族対立、これに世界最大の産油地帯・中東を巡る先進諸国の利害が絡んで事態を一層複雑にしている。

 ここに登場するのが、件のバレンボイムと彼の友人であるパレスティナ出身の作家であり思想家のサイードである。
 故エドワード・サイードは、1935年、英国委任統治時代のパレスティナ内エルサレム生まれ、叔母とともに幼少期をそこで過ごす。やがて、両親の住んでいたエジプトを経由して、アメリカに渡り、プリンストン、ハーヴァードの両大学で学士号、博士号を取得、その後40年間、比較文学を中心にコロンビア、ハーヴァード、エールなどの大学で教鞭をとる。彼が世界的に注目されたのは、著書「オリエンタリズム」(1978)であり、西欧のアジアや中東に対する評価の決定的誤りが植民地主義や帝国主義を招き、その後の混乱の主因になったと糾弾。同時に自身の出身国パレスティナ問題では常にパレスティナ人の権利擁護のために論陣をはり、先頭に立って運動に当たった。当初は親PLO派として活動したが、93年議長アラファトと決別。彼は、現実主義者アラファトのように、区域を厳然と分けてパレスティナ人とイスラエル人を分断するのではなく、両者が同等の権利をもって同じ区域に平和的に共存すべきと主張した。
 また音楽、とくにピアノ音楽には大変造詣が深く、熱烈なグレン・グールドの信奉者でもあり、同様の理由でバレンボイムとも親しかった。この2人が、1998年、議論を尽くして到達した構想がウエスト=イースタン・デイヴァン・オーケストラ計画であり、意見が一致するや直ちに実行に移すこととなる。
 2人の共通認識は、先ずパレスティナ問題は絶対に武力では解決し得ない。たとえ時間はかかっても徹底した相互理解による解決しかなく、そのために音楽は極めて有効である。しかも決してその実現は不可能ではないというものだった。

 具体的には、まずイスラエルとアラブから同じ人数の音楽志望の若者たちから成るオーケストラをつくり、毎年夏の決まった期間、共同生活によるワークショップに参加する。こうした音楽の共同研修を通じて今や敵国となっている相互の異なる文化を理解し合うことにより、たとえ宗教やバックグラウンドが異なっても人間は共存し得るのだということを肌で体験させる。そうした体験を通して将来に向かって東西の架け橋になるべき若い人材を育てていくこと、これが主たる目的だった。また研修での具体的成果を示すため、オーケストラは、各地でコンサートを開催し、更に有能と認められる若い演奏家には、イスラエル・フィル、ダマスカス交響楽団、カイロ・オペラなどへ、プロの演奏家として活躍の道を開いてやる。
 1999年に始まったこのプロジェクトは、スペインのアンダルシアで研修が行われ、研修後 演奏旅行で訪れた訪問国には、ドイツ、スペイン、フランス、英国、スイス、アメリカ、モロッコなどが含まれる。
 ところが、2003年9月、共同推進者のサイードが、志半ばにして白血病のためニューヨークで死去(享年67歳)。しかし、サイードの遺志をうけて、バレンボイムにより活動は途切れることなく継続される。2005年には中東パレスティナのラマラでコンサートが開催され、この模様がヨーロッパに放映された。このときの曲目は、ベートーヴェンの「運命」などで、CDとDVDでも発売された。

 さて、今回ここで取り上げるCDは、同オーケストラにより今年の8月27日ドイツのベルリンで開催されたコンサートのライヴ録音であり、しかも曲目は高らかに人類愛を謳ったベートーヴェンの「第九」となった。まさにこれ以上ない本プロジェクトの趣旨にもピッタリの曲目といえよう。
 しかし、この演奏旅行中においても、中東ではイスラエルとレバノン両国が最悪の紛争状態にあった。レバノンの武装組織ヒズボラがイスラエル兵を拉致したとしてイスラエル軍がレバノンに向けて空爆と進駐を開始、とくにレバノン国内では大勢の難民と共にかなりの数の死傷者が出た。10月になって、漸くイスラエル軍の撤退が実現はしたものの、根本的解決からは全く程遠い状況といえよう。

 この演奏、2005年、中東のラマダで録音された「運命」などと比べて、技術的にもかなり上達しているし、第一楽章の出だしから、やや遅めのテンポながら、堂々とした歩みで第三楽章まで進む。終楽章は、ヴァルトラウト・マイヤー、ルネ・パーペら一流のソロイストを得て引き締まるが、バレンボイムのタクトの下、手兵ベルリン州立歌劇場合唱団がこの若いオーケストラを全力でサポートしながら素晴しい盛り上りをみせ、オーケストラも必死でそれに呼応しつつ、全員一体となって白熱のフィナーレへと至る。
 バレンボイムの悠揚迫らぬ全体的な運びも、彼が尊敬する巨人フルトヴェングラーを彷彿とさせるところが随処に感じられる。
 CDの売上げ収益は、このワークショップの運営費にも充てられるということである。心から声援を送りながら、この途方もなく時間のかかりそうな、しかも地道に積み上げるしかない活動の発展を根気よく見守ってゆきたい。

 ジャケット写真は、この「第九」演奏時の指揮棒を振るバレンボイム。「いかなる状況の下でも音楽は決して無力ではない」その確固たる信念と確信がこの真剣な表情から見てとれないだろうか。
 頑張れ!ダニエル  フレー!バレンボイム