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第046回 2007/04/06
日本人が愛してやまない「忠臣蔵」の陰と陽

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日本ビクター JL-110-113(4)
歌舞伎『假名手本忠臣蔵』

大序「「鶴ケ岡社頭兜改めの場」、3段目「足利殿中松の間の場」、4段目「扇ヶ谷塩冶判官切腹の場」と「同 表門城明渡しの場」、6段目「与市兵衛内勘平切腹の場」、7段目「祇園町一力の場」

15世市村羽左衛門(塩冶判官/早野勘平)、12世片岡仁左衛門(顔世御前/お軽)、6世大谷友右衛門(高 師直)、7世坂東三津五郎(足利直義/千崎弥五郎)、7世沢村宗十郎(桃井若狭之介)、7世松本幸四郎(大星由良之助/不破数右衛門)、初世中村吉右衛門(寺岡平右衛門)、市村家橘(大星力弥) ほか
( 録音:1943年)


 芝居や講談、あるいは映画でお馴染みの赤穂藩の浪人たちによる復讐劇「忠臣蔵」は、通常、次のような口上で始まる。
時は、元禄14年(1701)3月14日、4ツ半(午前11時ごろ)。所は江戸城本丸松之廊下。浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)は、「このあいだの遺恨おぼえたるか」と言いざま腰の小刀を抜いて吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)を斬りつけた。
 問題の「遺恨」については、勅使接待役を命じられた内匠頭が指南役の上野介から法外な賄賂を要求されたが応じなかったという賄賂説、否、共に塩を産業の中心にしていた浅野・吉良両家の塩を巡る怨恨だったという塩田説、あるいは内匠頭の過礼症である反面、極端な潔癖性だった性格が主たる原因だとする性格説等々、諸説紛々であるが、ともかく内匠頭が上野介から散々なぶりものにされ罵詈雑言を浴びせられたので、到頭堪忍袋が切れて刃傷沙汰に及んだということになっている。
 幕府は直ちに決定を出して、内匠頭は即日切腹、赤穂藩5万石は断絶、当然、全浅野家家臣も即浪人となって路頭に迷うこととなった。時に内匠頭35歳。通常のルールでは、喧嘩両成敗のはずだが、このとき吉良家には何の咎めもなかった。ここに至って家老だった大石内蔵助以下、旧赤穂藩の浪人47人による主君の敵、吉良上野介に対する復讐ドラマが始まるのである。
 苦節1年9ヶ月、火消し装束を身にまとった浪士たちが吉良邸を襲撃し首尾よく上野介の首を打ち取ったのは、翌元禄15年12月15日寅の上刻、7つ時(午前4時)であった。当時の民衆、中でも江戸の町民は、この快挙に我がことのように狂喜し、やんやの喝采だったという。ともかく、浪人たちは自分たちに代って、横暴専横を極めた圧政者の一人、上野介を倒してくれたのである。この復讐劇を喜んだのは、民衆ばかりではなく、日頃から賄賂の横行、モラルの低下などに不満を抱いていた武家・旗本たちの多くも同様だった。
 幕府の決定に叛旗を翻して事に及んだ以上、浪人たちによる武力クーデターといえないこともない。幕府としても、その反響の大きさに全員を一応死罪と宣告はしたものの、その方法は武士としての面目を全うする切腹という形にせざるを得なかったのである。
 以降、この浪人たちによる復讐事件の人気に追討ちをかけ一層助長したのは、実説をもとに作られた夥しい数の芝居だった。とくに、“四十七士”の討ち入り後、偶然にも47年目の寛延元年(1748年)、大阪竹本座で上演された武田出雲、並木千柳、三好松洛の合作による人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」は4ヶ月ぶっ続けで連続公演するほどの圧倒的人気を博した。
翌年には早や歌舞伎に移入されて、直ちに3都で上演、更に江戸では3座で競演されるなど、以来この芝居は「かぶきの独参湯(どくじんとう)」として、出せば必ず大当たりする超人気演目となって現在に至っている。

 浄瑠璃並びに歌舞伎では大序付きの全11段、舞台も室町時代の足利尊氏の治世とし、内匠頭を塩冶判官、上野介を高師直、大石内蔵助を大星由良之助と一応は名前を変えたり、ストーリーも一部改変はしているが、知る人ぞ知る全ての見物客にとっては先刻周知の旧赤穂の浪人たちによる復讐事件そのものであり、ほとんどの客は実録とダブらせながら事の推移に涙したりハラハラし、最後は皆で快哉と叫んだことであろう。
 幾多の悲劇的事件を経て最後は見事に本懐を遂げるという結末には、多くの人々に強烈に訴えるものがあったし、古来日本人特有の判官びいき的性向にもピッタリ合致していた。しかも復讐後は、全員が潔く切腹し果てるという最後も人々の哀感を誘い、心の琴線に触れる大きな要因だったに違いない。

 本来、歌舞伎は江戸期の民衆の中から生まれ、当然民衆の立場から作られ演じられてきた。言い換えれば、歌舞伎に内在する権威に対する抵抗精神も江戸期を通して役者たちやそれを支える民衆によって長らえてきたのである。中でも「忠臣蔵」は師直に代表される官僚的悪、その背後にある封建制度の悪に対する哀しい抵抗と復讐の物語であり、武智鉄二氏の言葉を借りれば、「忠義という封建道徳を実践する(この場合「敵討ち」―筆者)に当たって、人間は如何に苦しみ、悲しみ、しいたげられねばならなかったを物語る事によって、(略)封建制度が生み出した道徳のからくり自体が、本来的に人間に対して悪である事をも物語ろうとする。(略)この悲しみの訴えのゆえに、忠臣蔵は古今に絶する名作の一つであり、尊い民族的芸術遺産の一つであり得たのである。」(ARTS GRAPH NO. 12/P.89 所収)

 歌舞伎で「忠臣蔵」は、幾つかの段を省略することはあっても、通しで演じられることが原則となっている。筋書きも実録とは若干異なり、例えば、刃傷の直接の契機が、塩冶判官の妻、歌舞伎では絶世の美女となっている顔世に横恋慕した上野介が冷たくあしらわれたことが理由になっていて、この辺りは大変に分かりやすい。またこれが歌舞伎では判官の刃傷沙汰の遠因ともなるのだが、足利尊氏の弟、直義の饗応役として実説にはない桃井若狭之介なる短慮一徹な若者が登場、事ある毎に師直に盾突いて家老の加古川本蔵に諌められたり、有名なお軽・勘平の悲恋物語、更には由良之助の息子、力弥と本蔵の娘、小浪の恋の成行きなど幾多のエピソードが、討入りまでの復讐劇という太い縦の線に絡みながら描かれていくのである。こうした復讐劇の陰で悩み苦しみ、もがき悲しんだ多くの人たちの悲劇が、この「忠臣蔵」というドラマにどれほどの厚みと魅力を与えていることであろうか。

「假名手本忠臣蔵」という芝居の構成とあらすじは、大凡 次の通りである。
 大序「兜改め」、事の発端となる鎌倉鶴ケ岡社頭での兜改めの場、新田義貞の兜の鑑定のために生前義貞の事情を知る顔世が呼ばれる。改め後、顔世を口説こうとする師直に怒った若狭之介が邪魔に入って、急場を救うが二人は険悪なムードとなる。2段目「松切り」、桃井屋敷が舞台。本蔵の娘、小浪の許嫁である力弥(由良之助の長男)が帰ったあと、本蔵は庭の松を切って主君若狭之介を激励。3段目「喧嘩場」、一方、本蔵は直に師直を訪れて多額の賄賂を贈り主君のために和解。他方、顔世に拒絶された師直は腹いせに判官を鮒侍と罵る。ここで判官耐えきれず刃傷に及ぶが、本蔵に抱き止められる。4段目「判官切腹」、判官切腹と死の床にかけつける家老の大星。由良之助は復讐を決意する。「道行」事件に立ち会えなかった勘平は、恋人お軽とその実家山崎へ逃亡。以下5段目「鉄砲渡し・二つ玉」と6段目「勘平切腹り」、お軽の父、与市兵衛の婿となって猟師をする勘平が夜中、猪と間違えて殺したのは与市兵衛と思い込み、進退窮まって千崎弥五郎らの前で自刃し果てる。実は婿をもう一度武士にしたいと願う与市兵衛が娘お軽を祇園に売る約束で得た半金50両を持って帰宅途中、悪人定九郎に殺され金も奪われたのだが、勘平が誤って撃ったのは与市兵衛ではなくその定九郎だった。7段目「茶屋場」、敵を欺くため大星が茶屋遊びの最中、力弥からの密書を他所ながら読んでしまう二人、一人は師直の間者九太夫、もう一人は遊女となったお軽である。由良之助は二人を亡き者にしようとする。ここに登場するお軽の兄、寺岡平右衛門から勘平の死を知り、悲しんだお軽は兄の手にかかって死のうとする。8段目「道行き旅路の嫁入り」、本蔵の妻、戸無瀬と娘小浪が力弥の居る山科への道行き。9段目「山科閑居」、由良之助の侘び住居が舞台。塩冶家の没落を理由に結婚を拒否する由良之助の妻、お石。戸無瀬と小浪の二人は死を決意する。そこに虚無僧姿の本蔵が現れ、真の拒絶の理由は判官の殿中刃傷を抱き止めたことではないかと知り、わざと力弥の槍にかかって死ぬ。ここに至って由良之助は息子力弥も敵討ちに加える本心を明かし、力弥と小浪は一夜かぎりの結婚へ。10段目「天川屋」、「天川屋義平は男でござる」で有名になった堺の商人、天川屋による武器の調達の件りを経て、いよいよ最後の11段目、最終目的である「討入り」へと至り、長いドラマは幕を閉じるのである。
 今回、取り上げたレコードでは、この内、大序「鶴ケ岡社頭兜改めの場」(1枚目)、3段目「足利殿中松の間の場」、4段目「扇ヶ谷塩冶判官切腹の場」と「同 表門城明渡しの場」(2枚目)、6段目「与市兵衛内勘平切腹の場」(3枚目)、
7段目「祇園町一力の場」(4枚目)までが収録されている。
 結構重い9段目「山城蟄居」と最後の11段目「討入り」が含まれないのは残念だが、全4枚組の大作であり、この「仮名手本忠臣蔵」という歌舞伎の醍醐味を味わうのには充分であろう。

 また、配役も、上記の通りだが、団・菊・左による明治の黄金期と菊・吉を中心とする戦中から戦後へと至る波乱の昭和期のほぼ中間に位置する大正安定期の名優たちによる当時望み得る最高の「忠臣蔵」といえよう。
 以下 若干補足すると、塩冶判官と勘平の二役を演じる15世羽左衛門(1874〜1945)は、すっきりした姿良し、朗々たるセリフ良しといわれ、大正・昭和の初めまで活躍した「最後の江戸役者」。5世菊五郎譲りの芸風と様式美に特徴があり、5世は伯父、6世菊五郎とはいとこ同士。「4段目」の判官と「6段目」の勘平は、6代目の当たり役とされたが、ここでの羽左衛門もそれに匹敵する出来栄えである。
 そして大星由良之助と不破数右衛門の二役を受持つのが、7世松本幸四郎(1870〜1949)。明治の巨人9世市川団十郎の愛弟子であり9代目に親しく師事した。ここでも80才を前に団十郎系の力強い言い回しなどで貫禄を示している。弁慶役者としてあまりに有名だが、9代目亡きあと最高の由良之助役者としても知られた。 
 顔世御前とおかる役の12世片岡仁左衛門(1882〜1946)は、立女形役として羽左衛門の相手役を長らく勤めたが、上方役者として和事も得意とした。
 足利直義と千崎弥五郎を演じるのは、7世坂東三津五郎(1882〜1961)。無形文化財、踊りの神様、格調の高さと気品が要求される直義役はピッタリだし、弥五郎も三津五郎が最も得意とした役柄だった。
 桃井若狭之助役の7世沢村宗十郎(1875〜1949)は、和事を得意とし、柔らかな芸風で人気があり一世を風靡した。「忠臣蔵」では塩冶判官が当り役だったが、この若狭之介も悪くない。お軽の兄で貧しい足軽、寺岡平右衛門を演じるのは初世中村吉右衛門(1886〜1954)。6代目菊五郎と常に対比されたが、6代目の世話物に対し、時代物を得意とし、その深い心理描写には定評があった。 

 とくにこの「忠臣蔵」のような超有名な出し物では、ひとかどの役者ともなれば、どの役でも一通りこなさねばならなかったようで、各役日替り方式も多かったようだ。
 浄瑠璃から歌舞伎に移したいわゆる代表的丸本歌舞伎の一つでもあり、この演目の地の部分は終始義太夫(これを歌舞伎ではチョボという)で語られるが、本場の文楽で厳しい修行を積んだ竹本鏡太夫、米太夫二人によるチョボ語りが素晴しく、役者のセリフにピタッと合わせながら、しかも芝居の節目・節目に見事な変化と彩りを与えている。

 ちなみに四十七士による討ち入りの日である師走の15日は、今でも吉良屋敷があった東京両国の一画では、毎年義士祭が行われる。この吉良邸は、JR両国駅東口から歩いて南東方向に10分ほど、元禄当時は、京葉道路に面して南側一帯の広大な敷地を占めていたようだが、現在では屋敷のほんの一部、「吉良首洗い井戸」といわれる井戸の周囲になまこ壁の囲いがあって義士祭前後には、この周辺に屋台などが並んで賑わいを見せる。
 JR両国駅近辺には超モダンな現代建築の代表みたいな国技館やら江戸博物館、また回向院などがあって戸惑ってしまうが、特に江戸後期、この駅から程近い隅田川にかかる両国橋界隈は江戸随一の盛り場として大いに賑わった。今でも毎年7月最後の土曜日には、有名な「両国の花火」が打ち上げられ、この時ばかりは、立錐の余地もないほど大混雑するが・・・

 ジャケット絵は、芝居絵の鳥居清光によるもの。文字は、おなじみの勘亭流。歌舞伎の看板や番付けなどに使用される書体で安永期、岡崎屋勘六により考案されたといわれるが、肉厚で丸味があり、更に縁起をかついで「内側に入る」ところが特徴。