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第060回 2007/09/26
「蝶々夫人」の悲劇と日本人 ─ 同時にパヴァロッティを悼む ─

60

ジャコモ・プッチーニ
『マダマ・バタフライ(蝶々夫人)』抜粋盤

M.フレーニ(S)
L・パヴァロッティ(T)
C・ルードウイッヒ(Ms)
R・カーンズ(Br)ほか
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)
ウィーン・フィル&ウィーン国立歌劇場合唱団

(録音:1974年1月 ウィーン)
日ロンドン POCL-2707 (CD)

 


 明治20年ころの異国情緒溢れる街、長崎を舞台にした歌劇、プッチーニの名作「蝶々夫人」は、「ラ・ボエーム」「トスカ」とともにプッチーニ3大オペラの一つであり、更には「カルメン」「椿姫」と並ぶ世界で最も人気のあるオペラの一つという人も多い。原作は、1898年発表のアメリカ、フィラデルフィアの弁護士ジョン・ルーサー・ロングによる実話に基づくとされる同名の小説だが、これをもとにデイヴィッド・ベラスコにより戯曲化された芝居がニューヨークやロンドンで大ヒットした。1900年5月「トスカ」の英国初演のためロンドンに滞在中だったプッチーニがこれを観て甚く感動し、直ちにオペラ化を決断。十分な準備の末、2年の歳月を掛けて作曲に注力し、途中、自動車事故に遭遇して重傷を負うというアクシデントがあったりしたが、03年末に完成される。
 ストーリーは、アメリカ海軍士官ピンカートンが、駐留中の長崎で「蝶々さん」と呼ばれる幼い芸者と恋に落ち、領事シャープレスの忠告も聞かずに、強引に結婚式を挙げた後、2人は港が見える丘の家で幸せな愛の巣を営む。やがて任務を終えたピンカートンは必ず戻ってくることを約束して、アメリカに帰国するが、何年経っても音沙汰がない。2人の間に生まれた子供を育てながら女中とともに唯ひたすら待ちわびる蝶々さん、そこにシャープレスからピンカートン帰還の知らせが入り、大喜びしたのも束の間、やがてアメリカ人の新妻を伴って現れたピンカートンに全てを悟り、息子を彼に預けて自刃し果てるという悲劇である。
 没落武士の出で、家のため止むなく芸者になった蝶々さんが大和撫子風な可憐さのなかに武士の娘らしく毅然と最後を全うするところなど、思わず襟を正す気持になるが、プッチーニにとっても自身作り出した数多あるヒロインの中で最も愛すべき存在となった。
 しかも、「宮さん宮さん」「お江戸日本橋」「越後獅子」「かっぽれ」などの多くの日本民謡を交えながら、蝶々さんとピンカートンによる2重唱「夕暮れは迫り」(1幕)、あまりに有名な「或る晴れた日に」(2幕ー蝶々さん)また「愛の家よ、さようなら」(2幕ーピンカートン)「可愛い坊やよ、さようなら」(2幕ー蝶々さん)などの名アリアがちりばめられた彼にとって、音楽的にも最も油の乗った時期の作品となった。
 そしていよいよ1904年2月17日にミラノ・スカラ座において初演されることになる。時にプッチーニ45歳。「ラ・ボエーム」「トスカ」などの成功を引っ提げての自信満々の登場であり、このとき初めて家族を招待してスカラ座入りしている。主役の蝶々さん役には、当時 ”最高のリリック・ソプラノ”(トスカニーニ)と云われたお気に入りのロジーナ・ストルキオを配し、事前の準備にも万事怠りはなかった。
 しかし、何たることか!いざフタを開けてみると、見るも無惨な状態となる。第1幕も半ばを過ぎるや、怒号やら口笛が鳴り出し、第2幕に入ると音楽も聞き取れないほど騒然となった。泣き出すストルキオに、プッチーニは、「泣いてはいけない。今夜は失敗だったが、このオペラは必ず成功する。あなたの歌や曲のせいではない。要はミラノの連中の耳が節穴同然だったからだ。金輪際、スカラ座での上演はしないぞ」と慰めて、初演をたった一晩で打ち切ってしまった。
 失敗の理由は、いろいろと云われたが、一つにはこうした異国趣味が十分に理解されなかったこと、2幕目が少し長過ぎたこと、もう一つは、あまりに高いプッチーニの人気に快からぬ一派がサクラを使って妨害したのではとも云われる。
 しかしやがて彼の予言は的中する。信頼する指揮者トスカニーニが再上演を申し出るが、彼からの進言も取り入れて若干手を加え、それから3ヶ月後の5月28日、ブレシアのテアトロ・グランデでの上演では大成功を収めたのである。そのとき蝶々さん役は、ウクライナ生まれのロシアの名ソプラノ、サロメア・クルシェニスキがつとめた。以来、翌05年7月には、英国ロンドンのコヴェント・ガーデン、06年10月にはアメリカ、ワシントンで夫々上演して大成功、そして最後のトドメが07年2月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場であり、このときは蝶々さん役をジェラルディン・ファーラー、ピンカートンがカルーソーという豪華な配役によりオペラ「蝶々夫人」は決定的評価を得たのである。ちょうど今から1世紀前の出来事であった。しかし、初演以来20年の間、プッチーニ生前中には、イタリアを代表するスカラ座での再演を彼は決して許さなかった。作曲者の没後1周年を記念して漸く上演されたが、このとき指揮をしたのは当時のスカラ座芸術監督トスカニーニだった。
 ところで、このドラマ、実話に基づくものということで、その後種々詮索が行われた。実は原作者ロングの実姉サラが当時宣教師であり学校経営者コレルの妻として長崎に滞在しており、話のネタはこの姉から得たものといわれる。ただこの話自体、アメリカ人にとっても決して名誉な事件ではないので、作者は最後まで真相を明かさずに亡くなった。当時、ラシャメン(洋妾)と呼ばれた多くの女性は存在していたが、裏切られて自殺したという女性は発見できず、何時しか追跡調査も終わりとなったようだ。ただ、同じく武士の出であり生立ちや境遇では、有名な英国の貿易商トーマス・グラバーの妻、おツルさんが似ているし、しかも彼女は蝶紋の羽織を好んで着ていたことから「蝶々さん」と呼ばれていた。そんなことから現在でも長崎湾を見下せる丘上にある美しい洋館、旧グラバー邸があたかもこのオペラの遺跡のごとく扱われた時期もあったが、彼女の場合、夫グラバーとの間に2子をもうけて、50歳近くまで生存しているので、厳密にいえばモデルとはいえまい。
 尚、後日譚としてこれまたオペラ化された「ジュニア・バタフライ」について。
 話は、アメリカに引き取られた蝶々さんの遺児、ピンカートン・ジュニアが辿った太平洋戦争、長崎の原爆もまじえた半生のドラマであり、島田雅彦の原作を三枝成彰が作曲し、昨年(2006)4月、主役のジュニアを佐野成宏、その恋人役を佐藤しのぶで初演。8月イタリアのプッチーニ・フェスティヴァルでも大好評を博した。

 さて、肝心の取り上げるべきレコードだが、これには随分と迷ってしまった。
 このオペラ、「ソプラノ殺し」として有名で、蝶々さんが最初から最後までほとんど出ずっぱり。文字通りタイトル・ロールの出来如何により全体が大きく左右される。

 ちょうどここまで書きすすんできたところで、ああ何たることか、突然、かのパヴァロッティの訃報が飛び込んできた。
 「2007年9月6日、生まれ故郷のイタリア北部の町、モデナの自宅にて膵臓がんのため死去、享年71歳。」1935年生まれ、61年にデビュー、65年スカラ座デビュー、「キング・オブ・ハイC」と呼ばれ、以来世界のテノール界をリードしてきた3大テノールの一人。その明るくトランペットのように輝かしい声で世界を魅了し続けた。我々は、また一人かけがえのない歌手を失ってしまった・・・。
 ここに至って、選択レコードも自動的に決まった。即ち、パヴァロッティへの追悼をこめて、彼がピンカートンを歌うカラヤン指揮ウィーン・フィルの録音である。蝶々さんは、結果的にミレッラ・フレーニとなるが、この組み合わせが実は大変に好ましいことに気がついた。1974年1月の録音、フレー二は未だ30代と若いし、小柄で可憐。声質はリリコだし、イメージとしても蝶々さんに相応しい。
 筆者にとって、このオペラの場合、蝶々さん役だけは、どんなに歌が上手くてもイメージが合わなければ どうも具合が悪い。その意味でフレー二は、現在望み得るほぼ理想的な蝶々さんではなかろうか。しかも、このころのパヴァロッティは、若々しく声には一層の伸びと輝きがあったし、スズキのルードウィッヒの芸が訥々として何とも上手い。そしてカラヤンの指揮、たっぷりとメリハリをつけながらドラマティックにウィーン・フィルを華麗に歌わせている。
 ちなみに、フレー二とパヴァロッティは同じイタリア、モデナの生まれで、しかも同じ年だった。近所住いの幼なじみともいわれ、このコンビで悪かろうはずはない。

 最後に日本およびアジアに対する人種的偏見の問題について一言。このところこのオペラに於ける蝶々さんの扱われ方に異を唱える向きもあるが、これはあくまで維新後あまり時を経ていない明治の話である。残念ながら当時は欧米人にとって日本を含めたアジア人に対する偏見は厳然と存在していたし、歴史的事実は事実として受け止めるよりないであろう。また欧米で実際にこのオペラを舞台で観たりすると、蝶々さんもだが、筆者にとっては、端役ながら取り巻きの日本人の男たち、ゴロー、ボンゾ、ヤマドリ公爵などがいかにも蔑視的に扱われ、時には下品に演じられることに対し、すこぶる不愉快な感じをもつことが多かった。これまたやむを得ないことかもしれぬが、やや大袈裟な言い方をすれば、これも氷山の一角であり、多くは無知によるものにも拘らず、こうした一般的な扱われ方に対する根強い反感が国民感情の底流にあって、やがては第二次大戦をひき起こし無惨な敗戦への道を辿った日本の悲劇の要因の一つだったといえないこともない。(勿論、だからといって断じて正当化されるものではないが)
 もう一つ、大戦前、我が国の誇るべきソプラノ三浦環が、欧米を中心に2000回以上、蝶々さんを歌い続けて国際的名声を博した。勿論、彼女が優秀な歌手だったことがあるが、一つにはやはり日本人だったからという理由もあろう。何といっても、日本人である蝶々さんは、日本人が一番似つかわしいし、その意味では吹替えではあったが1955年製作の日伊合作映画「蝶々夫人」(カルミネ・ガローネ監督)での八千草薫の蝶々さんなどはイメージ的には最高だった。
 折角日本人ソプラノに用意された数少ない役柄であり絶好の特権でもあるのだから、難役には違いないが、これからもこの特権を大いに活かして、もっともっと素晴らしい日本人の蝶々さん歌手が出てきて欲しいものである。
 尚、ジャケットの場合も、同様イメージにこだわるわけではないが、このオペラの全曲盤に限って、残念ながら、これはというものには出会ったことがない。
 ここでも敢えて本録音の英米で初出の全曲盤オリジナルではなく、日本で発売されたCDのしかも抜粋盤用を使用した。このオペラのスカラ座初演のときのポスターそのままが転載されているが、このポスター部分は中々素敵ではないか。全体のレイアウトは、ややあっさりし過ぎてはいるが。バックのスカイブルーは、「或る晴れた日に」にあやかったものか。