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第29回 2003/2/26

まだまだ寒い冬が続いているのですが、郊外を散策していますと、いつのまにか陽だまりのそこここにホトケノザの可憐な薄紅色や、ナズナの素朴な白色が目にとまるようになりました。もの言わず静かに近づきつつある春の足音を、野の草花は、気温の変化が緩慢化する中で、次第に長くなってくる日照量を推し量りつつ、敏感に聞き取っているのでしょう。インフルエンザの猛威もやっと矛を収めてきたようですが、花粉の悪夢がまもなく始まりそうです。季節の変わり目、どうか皆様、体力を過信なさらずにご自愛ください。

仕事の関係上、東京都下で車を運転することがあります。その際いつも気になってならないのが、電信柱の存在です。とりわけバスが走り、自転車も併走するような環境では、電信柱があると対向車を、電信柱の手前でじっと待機するしかありません。狭い道路をもっと狭くし、交通の主要な妨げとなっていることは誰しも疑いようのない事実に思えます。

わが国は、明治10年(1877年)、その前年にアレキサンダー・グラハム・ベルの発明した電話機をアメリカから輸入、翌、明治11年には国産の電話機の製造に取り組み開始。そして22年後の明治32年には東京・大阪間の電話が開通、その後全国に枝のない枯れた木が、電信柱の名前で、文明開化の一つの象徴として全国に立てられていきました。明治、大正そして昭和20年代にいたるまで、電信柱の存在は、その地区住民にとって文明を表すバロメーターであったかもしれません。

この電話での音声伝達用送信線用の電信柱は、まもなく電気配電用の線路としても、兼用されるに至ります。その意味で、少なくとも第2次世界戦争後の日本では、電信柱は電柱になったのです。この電柱が被雷し、切断された電線が地面の水溜りに放電し、一体何人の人命が奪われたことでしょう。当社の位置するさいたま市でも、ほんの2、3年前に学校帰りの小学生がこの事故で亡くなりました。柵のないため池や、用水路に児童が落ちて事故になると、担当行政機関にその責任を問うことの多いマスメディアも、落雷による電線事故で、昔の電電公社、現在のNTTを叱責する論旨を展開する記事を目にしたことはありません。あたかも純粋の天災的な事故扱いです。しかしこれは、明らかに人災です。

高度成長期を経て、木で作られた電柱は、コンクリートへと姿を変えています。電話線と電線が重なり合い、時として危険でもあり、また、交通の妨げにもなるこの迷惑線路は、今となってはすべて地下に収納すべきであることは、本質的には議論を待つべきではありません。この所有者であり、管理者であるNTTは、環境保護推進活動に積極的な取り組みを見せています。私の個人的な趣味である、バーディングにおいてさえ、たとえばバードソンのような活動の主要なスポンサーになっています。下に記載したホームページにはその活動が詳細されています。
http://www.ntt.co.jp/kankyo/

広範囲にわたる多様な環境保護活動は、賛美されて余りあるものがあります。国際環境保護資格であるISO14001をグループ各社のうち55社、73サイトが取得していると述べてもいます(2002年3月現在)。ただ残念ながら、環境負荷監査の対象として、電柱の削減と地下ケーブル化は、いまのところ検討課題としてすら、何ら問題視されていません。牽強付会にいうのではありませんが、電柱がなくなれば交通渋滞の緩和に寄与すること間違いなく、二酸化炭素削減にも結びつきます。

NTTは電磁波の人体への影響を気にしていますが、触れていないことがあります。人体への影響以上に音楽ファンにとって、音楽信号再生上、電線からの電磁波は強く、直接的に悪影響を与えているのも事実です。特に、大きな変圧器、トランスを搭載した電柱のある地域ではそれが顕著です。こうした外部撹乱信号を、一般的に外乱ノイズと呼びますが、このノイズ対策で多くのオーディオメーカーは、AC電源供給回路に、ノイズを削減する強力耐磁フィルターを搭載せざるを得ないのです。音声信号のように、微弱、低電源の信号は、本来裸のまま、もっとも短く結線できるに越したことはないのです。

膨大な費用と時間のかかる、全国家的事業を一朝一夕にできるとは夢想だにしませんが、そういう方向性を持って、政府とNTTは取り組んでもらいたいものです。電柱が文明開化の象徴である時代は、はるか昔に終わっています。東京と、その他の世界的に有名な都市、たとえばニューヨーク、パリ、ベルリンを隔てる大きな相違。電柱の膨大な存在です。住民が隣接し、交通に不便な箇所があることは、どの大都市も同じです。それをさらに悪化させる電柱をこれほど多く見かけるのは、我が東京だけです。もはや、環境への取り組みの怠慢さの象徴として、ある意味では、文化的後進性を表すものとして、電柱は私たちの前に立ちふさがっているように思えるのです。