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ホーム/コラム/みだれ観照記/打撃の神髄 榎本喜八伝

第38回 2005/08/01
打撃の神髄 榎本喜八伝
38

書名:打撃の神髄 榎本喜八伝
著者:松井浩
出版社:講談社
出版年月日:2005年4月25日
ISBN:4−06−212907−8
価格:1,890円(税込)
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2129078

日本のプロ野球界では、野手であれば2,000本以上の安打、投手であれば200勝以上もしくは250セーブ以上を挙げた著名な選手は、「名球会」のメンバーとなる資格を授与されます。その資格を持ちながら、名球会に名を連ねていないかつての大打者として、現中日ドラゴンズ監督、落合博満(3度の三冠王獲得の記録は未だに破られていません)がいることは皆さん周知のことでしょう。この落合以外にもう一人、有資格者でありながら、恐らくそうしたことに興味も示さなかった大選手が、この本の主人公、榎本喜八(一塁手)です。

1955年から1972年まで18年間パリーグに在籍。毎日オリオンズに入団した1955年に新人王獲得。その後、合併して大毎オリオンズと名前の変わった(1959年)翌年に、初めて首位打者となり(1960年)、その年を含めて1962年までの3年間、連続して最多安打を記録しています。大毎オリオンズは、その後東京オリオンズ(1963年)、そして現在と同じロッテオリオンズ(1969年)と名前を変えていきます。

この『打撃の神髄』では、榎本がプロ野球に進むまでの貧困生活の中、野球にかけるひたむきさの時代以上に、プロ野球に進んだ後、特に新人王を獲得してから1960年に初の首位打者を獲得するまでの「低迷期」の苦闘にかなりのページが割かれています。そして打撃理論と実践の統一を図る苦闘の日々が、特に技術論を中心に解説されます。筆者は、プロローグの中で、榎本喜八と約2年間インタビューを続けたこと、そして榎本の話が「かなり難しかった」ことを告白しています。そして、「ようやく榎本の話が少しは理解できたかなと思ったのは、解剖学から始まって運動生理学、身体論、運動科学、さらには武道・柔術の歴史までを勉強し、実際に脱力法や呼吸法のトレーニングを6年間積んだ後のことだった」と追記しています。この著者の努力の成果がよく表れているのが、この低迷期の苦闘を描く部分(第3章プロの壁、第4章魂の注入から第5章愛器打法の熟成)といえます。後に「世界の王」を育てた名伯楽、荒川博の熱心な指導、彼を通した合気道とのかかわり、呼吸法の鍛錬と習熟の説明は、ひょっとしたら今日でも職業としてスポーツを選択した人々に実践的に役立つような説得性があります。この期間を打撃の職人として精進に倦むことのない榎本像を見事に描ききっているように思えます。

さて、私は、小学校から高校までを大分県で過ごしてきました。1958年の日本シリーズ、セリーグの覇者、読売ジャイアンツに3連敗した西鉄ライオンズ(現在の西部ライオンズ)が、連投のエース稲生和久を尚も押し立てて4連勝を遂げ、奇跡の逆転優勝を果たし「神様、仏様、稲尾様」と崇めたてられたのは、小学校4年生の頃だったでしょうか。特に稲尾投手が大分県、別府緑ヶ丘高校の出身でしたから、全九州を巻き込んだ西鉄ブーム、さらには稲尾ブームの、大分県での熱狂はかなりのものであったように思い出します。この稲尾投手と榎本との勝負の分析には、プロでなければわかることのできない緊迫した瞬間が今、目の前のことのように随所に描き出されています。

この西鉄ライオンズ、稲尾投手ブーム以前、パリーグの大投手として一世を風靡したのが、同じ大分県出身(大分経専?後の大分大学経済学部から別府星野組)の大毎オリオンズ、荒巻淳でした。新人として榎本喜八が大毎オリオンズに入団した1955年当時のエースです。この荒巻投手と、榎本喜八とは同期入団の、これも大分県、大分上野が丘高校出身の葛城隆雄選手を一目見ようと、オープン戦に駆けつけたのは、稲尾ブームの前年1957年春、今はない大分球場だったと記憶しています。荒巻投手の練習での投球があまりに速く、目を回す思いだったことを今でも覚えています。今にして思えば新人王を獲得した榎本が首位打者を目指して苦闘していた頃だったのです。

榎本喜八の苦悶の時期を、求道者の苦しみとして描いている本書ですが、別の側面では、同時入団の葛城隆雄に対するライバル心と追い抜かれる恐怖心という葛藤もあったのではないかと推測されます。ちょっとデーターを調べてみました。

1955年
榎本喜八:本塁打16本(6位)、打点67打点(10位)、打率0.298(10位)新人王獲得
葛城隆雄:レギュラーになれず

1956年
榎本喜八:本塁打15本(4位)、打点66打点(10位)、打率0.282(9位)
葛城隆雄:本塁打13本(5位)、打点10位以内に入らず、打率10位以内に入らず

1957年
榎本喜八:本塁打10位以内に入らず、打点10位以内に入らず、打率10位以内に入らず
葛城隆雄:本塁打16本(6位)、打点91打点(3位)、打率10位以内に入らず

1958年
榎本喜八:本塁打13本(6位)、打点10位以内に入らず、打率10位以内に入らず
葛城隆雄:本塁打20本(3位)、打点85打点(打点王)、打率0.305(3位)

1959年
榎本喜八:本塁打10位以内に入らず、打点10位以内に入らず、打率10位以内に入らず
葛城隆雄:本塁打24本(2位)、打点95打点(連続打点王)、打率0.309(3位)

1957年を境に、同時入団の二人の成績がまったく逆転しています。同一球団の同時入団のライバルから水を次第にあけられる苦しみは相当なものがあったのではないでしょうか。やがて1960年、球団は優勝し、榎本喜八は初めての首位打者に輝きます。この時、既に2度も打点王を経験していた同僚葛城とも同じ場所に立てたという安堵感もあったのではないかと思われます。

野球選手を取り扱ったノンフィクションの名著に、ねじめ正一の『天使の相棒』があります。この『天使の相棒』がどちらかといえば選手同士の心の交流をほのぼのと描いているのに対して、この『打撃の神髄』は、徹底的に打撃の向上を目指した努力人の盛衰を技術の側面から極力描ききろうとした労作で、甲乙付けがたい日本の野球ノンフィクションベストテンに選ばれるべき作品です。

惜しむらくは、榎本喜八の打撃とは別の大記録である守備の素晴らしさ(1968年1塁手年間守備記録0.992は今も日本記録、2度にわたる守備機会連続無失策記録)についても、ひと言あればというのは欲張り過ぎでしょうか。
(文中、人名の敬称を略しました。)