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第59回 2007/5/26
生物と無生物のあいだ
59

書名:生物と無生物のあいだ
著者:福岡伸一
発行所:(株)講談社(講談社現代新書)
出版年月日:2007年5月20日(初版)
ISBN:978−4−06−149891−4
価格:740円(税別)
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1498916

2年前にこの「観照記」第35回(2005年5月)で、ご紹介しました「もう牛を食べても安心か」の著書、福岡伸一さん(帯によると現在、青山学院大学教授)の最新の新書版です。生命のあり方について、分子生物学研究者の立場から、今回はウイルスにスポットを当てながら20世紀の学説の流れのなかで、生命とは何かについて説明しています。

読み出しますと一気に最後まで読み通させてしまう筆運びの妙は、「もう牛を食べても安心か」を凌ぐ冴えを見せていると感心します。第1章で、今の千円札のモデルとなった野口英世に触れた箇所があります。かつて、小説家渡辺淳一の「遠き落日」で野口の破天荒な生活ぶりが歯に衣を着せない筆致で世間に暴露された記憶がありますが、どうもそれ以上に、アメリカ人研究者からの評価は厳しいものであることが紹介されています(「彼の業績で今日意味のあるものはほとんどない」と)。

筆者がここで野口英世の限界として取り上げたのは、彼の研究時代には見ることのできなかったものがその研究対象であったことです。野口の研究対象とした、狂犬病や黄熱病の病原体は、彼が必死に試験管数千本で純化の仕分けを試みた細菌ではなく、当時の顕微鏡ではとうてい検出不可能な超微生物、ウイルスであったことが指摘されます。

病気は病原体によって引き起こされますが、病理学者はその病原体が間違いなくその病気を引き起こすことを、まず立証しなければなりません。筆者の言葉を引用しましょう。「ある微生物が必ず病巣から検出されたとしても、この時点では未だ嫌疑不十分なのだ。−略 - 相関関係が原因と結果の関係、すなわち因果関係に転じるためには、もうひとつ次へのステップフォーワードが必要なのである。野口英世がはまり込んだ陥穽も実はここにあったのだ」 ここで病原体というとき、その本質が把握されないとき、「真犯人」が特定されない限り、「因果関係」が証明されたことにはならないと示唆しているのです。

ウイルスをヒトが見ることができるようになったのは「電子顕微鏡が開発された1930年代」以降のことと説明されます(ちなみに野口英世が黄熱病で死去したのは1928年)。大きさは、「大腸菌をラグビーボールとすれば、ウイルスは(種類によって異なるが)ピンポン球かパチンコ玉程度。」黄熱病や狂犬病の病原体として細菌を追い求めていた野口は、結果としてその延長上に細菌とは別次元の、真の病原体であるウイルスの存在すら予見できなかったことによって、後の病理学者からその研究の大部分が意味のないものと評価されるにいたったのです。

さてこの著作の本論はここからです。「ウイルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり一切の代謝を行っていない。」しかし、他方で、「ウイルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、そして最大の特性がある。それはウイルスが自らを増やせるということだ。ウイルスは自己複製能力を持つ。ウイルスのこの能力は、たんぱく質の甲殻の内部に鎮座する単一の分子に担保されている。核酸=DNAもしくはRNAである。」

自己複製能力が生命体の基幹であるとすれば、ウイルスは生命体と分類されるでしょう。しかし著者は、自己複製能力以上に、抽象的にいう、生命の律動に、生命の特徴を見極めようとします。

著者は、まずDNA(核酸)こそが遺伝子であることを最初に気付いたのは、オズワルド・エイブリーであることに言及します。その後、1953年、イギリス・ケンブリッジ大学にいたジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックが、その後有名となる、DNAが「二重ラセン構造」をしていることを発表(後にこれでノーベル賞受賞)します。今日では、この二重のラセン構造のみが一般的にスポットライトを浴びることが多いのですが、著者は自己の分子生物学者としての立場から、「DNAこそが遺伝子の本体であることを明確に示したエイブリーの業績は、生命科学の世紀でもあった二十世紀最大の発見であり、分子生物学の幕開きをもたらしたことは疑う余地がない」と絶賛します。

二重のラセン構造の発表以来、DNA研究に飛躍的な発展をもたらした、PCRの発明者、キャリー・マリス、また二重のラセン構造の解明に少なくとも多大な学研的寄与をした、ロザリンド・フランクリンの業績が挙げられていきます(第5章、6章)。

さて、ここで著者は、自己複製能力に加えて、生命の律動感という抽象性を、新たに、生命とは「現に生存する秩序がその秩序自身を維持していく能力と秩序ある現象を新たに生み出す能力」という言葉に置き換えていきます。そこに関わる偉大な先駆者として、まず物理学者エルヴィン・シュレーディンガーを挙げます。われわれの身体が、超微細な原子の大きさと比較してなぜこれほど大きいのかという問いかけが物理学者から発せられると、物理法則と生命科学の関係がきわめて明確なものとなってきます(第8章)。

「すべての秩序ある現象は、膨大な数の原子が一緒になって行動する場合にはじめて、その『平均』的なふるまいとして顕在化するからである。原子の『平均』的なふるまいは、統計学的な法則にしたがう。そしてその法則の精度は、関係する原子の数が増せば増すほど増大する。」 かくして微細な原子からなる生命体は、原子の数の大きいことを必然とするのです。

著者は、偉大な先達の最後に、「牛肉はもう食べても安心か」でも触れた、ルドルフ・シェーンハイマーの業績に触れます(第9章)。シェーンハイマーの言葉を引用して、「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の新の姿である」ということこそ、「新しい生命観誕生の瞬間だった」と評価するのです。

著者は、第10章以降に、自らの特殊たんぱく質の研究のプロセスを記述しています。代謝の絶え間ない変化としての生命のあり方を、原子的レベルで追求する困難さと結果の意外さ、近代科学の研究現場の容易ならざる現状が率直に述べられます。

遺伝子がDNAによって構成されること。また生命体は、DNAによる自己複製能力だけでなく、秩序ある生命活動の維持と再現を可能とすること。そしてそうした能力の維持には、DNA自体も含めた絶え間ない構成要素の循環がこれを保障していること。こうしたすべての営みの連鎖が生命体であるとき、自己複製能力しか持たないウイルスは、生命体と物質のあいだ、「生物と無生物のあいだ」にある存在であるといわざるを得ないのかもしれません。一気に読めること請け合いです。