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第065回 2007/12/15
トスカニーニ渾身のベートーヴェン
「交響曲第7番」

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ルードウィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン
『交響曲第7番 イ長調 作品92』

アルトゥーロ・トスカニーニ指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
(録音:1936年4月 ニューヨーク)

米 RCA キャムデン CAL-352

 


 今年(2007)は、イタリア出身の世界的大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの没後半世紀、50周年ということである。ちなみに、彼は1867年3月生れなので、生誕140周年でもあった。
 トスカニーニといえば、日本ではブルーノ・ワルター、ウィルヘルム・フルトヴェングラーとともに20世紀を代表する3大指揮者の一人と言われることも多いが、生前より欧米でも常にライバルとして対比されたのが、1886年にドイツで生まれたフルトヴェングラーだった。
 この2人、その生い立ち、その後の生き方、音楽性など全てにおいて対照的だった。イタリアの地方都市パルマの貧しい仕立て屋の息子として生まれたトスカニーニ、ドイツの首都ベルリンで世界的な考古学者を父としピアニストの母との間に生まれ、家庭教師による英才教育を施されたフルトヴェングラー。一介のチェリストとしてオペラ団と南米を巡業し「アイーダ」上演中、同伴指揮者があまりに下手糞で観客にやじり倒され万事休すになったとき、急遽ピンチ・ヒッターとして登場し暗譜で最後まで見事に指揮をして窮地を救ったという有名なエピソード(彼は以降「アイーダ」だけではなく巡業中上演した全てのオペラを暗譜で指揮し無事帰国)以来、イタリアに戻ってからは推挙されて指揮者に転向、各地のオペラ場をトントン拍子に通過して、1898年(31歳)、遂にイタリアを代表する歌劇場、ミラノ・スカラ座首席指揮者にまで上りつめたトスカニーニと、常に若手のリーダーとして着実に名声を重ねつつ、1922年、36歳の若さで巨匠二キシュの後を継いでドイツ・オーケストラの最高峰ベルリン・フィルハーモニーとライプツイッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者となったフルトヴェングラー。やがて第2次世界大戦が勃発するが、ここでも夫々の独裁政権に対する2人の態度は対照的だった。イタリアを乗っ取ったファッシストの統帥ムッソリーニと激しく対峙し、早々に独裁者支配の祖国を見限って戦時中はアメリカを拠点に反体制運動をしたトスカニーニと、終戦直前の最後の瞬間までドイツ国内に踏みとどまり、ナチス・ヒットラーに抵抗し続けたフルトヴェングラー。彼は戦後1947年5月に漸く演奏禁止が解けて復帰、以降第一線で指揮することになるが、54年11月に他界してしまう。この同じ年の4月、トスカニーニも長い現役生活からの引退を宣言し、その3年後に死去した。
 短躯に火の玉のような闘志を漲らせたトスカニーニは短気、一本気で決断も早かったが、長身痩躯で貴族的風貌のフルトヴェングラーは、一見冷静沈着、結論にも思索を重ね時間を要した。2人の作り出す音楽も、前者が明るくアポロ的でいかにもイタリア人らしく旋律重視なのに対し、後者はドイツ的にかい渋、暗く徹底して和声重視を貫いた。
 テンポの設定も前者はあくまでイン・テンポを旨とし単純明快、原則として楽譜の指定通りを第一義としたが、後者のテンポは十分に考えぬかれた末、時には即興的に複雑に揺れ動いた。前者にとって何より重んじられたのは全体の構築性であり、明快なテンポとともに、エネルギーの起承転結やバランス感覚が見事だったが、晩年は全体を重視するあまり細部を顧みないこともあった。これに対し、後者は、逆に1つ1つの細部を決してゆるがせにせず和声進行に注力するあまり時には作品の全体像を損なう恐れがあった。ハーヴェイ・サックス流にいえば、若干極端な表現ではあるが、森を見せて木を見せないのが前者であり、その反対が後者だったのである。

 トスカニーニの魅力は、表現上は直線的で凝縮された激しさと時には情緒纏綿たるカンタービレの優美さを兼ね備えながら、しかも一糸乱れぬ正確かつスピーディなテンポとゴシック建築のような精緻な構築性を決して崩さないことであろうか。
 その演奏様式は新古典主義に基ずくといわれるが、カラヤンを初めとする20世紀後半以降に輩出した多くの指揮者たちに多大な影響を与えた。指揮界に1つの確たる方向性を定め自らその模範を示し導いたといっても過言ではなかろう。

 ここで、もう少し詳しくトスカニーニの生涯を辿ってみることにしたい。

1867  イタリア パロマで生まれる。
1876 パロマ音楽院入学。
1885 音楽院卒業。チェロと作曲で最優秀。ピアノでも最高賞。
1886 6月30日 リオデジャネイロで指揮者デビュー。同年トリノでイタリア・デビュー。
1892 ダル・ヴェルメ劇場(ミラノ)でレオンカヴァッロ「道化師」の世界初演。
1895 トリノ王立歌劇場首席指揮者就任。ワーグナー「神々の黄昏」のイタリア初演。
1896 プッチーニ「ボエーム」の世界初演。
1897 カルラ(1877‐1951)と結婚。
1898 ミラノ・スカラ座の首席指揮者に就任。
1899 ワーグナー「ジークフリート」イタリア初演。
1900 チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」イタリア初演。
1901/03/04/06 冬のシーズン、ブエノスアイレスのテアトロ・コロンで指揮。プッチーニ「マダム・バタフライ」など多くのオペラのアルゼンチン初演。
1903 スカラ座を辞任。短期間フリーで活躍。
1906 スカラ座へ復帰。R・シュトラウス「サロメ」のイタリア初演。
1908 スカラ座でドビュッシー「ペレアスとメリサンド」イタリア初演。
同年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場首席指揮者就任。
1910 同歌劇場のパリ引越し公演。メットでプッチーニ「西部の娘」世界初演。
1913 メットでムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」のアメリカ初演。
1915 メトロポリタン歌劇場を辞任してイタリア帰国。
(1914〜18 第1次世界大戦 )
1915〜18 第1次大戦中は、イタリアに滞在、チャリティ公演のみに出演。
1920〜21 スカラ座にて芸術・財政面の改革実施。
1921 12月26日 1917年以来閉鎖されていたスカラ座の定期シーズンをヴェルディ「ファルスタッフ」で再開。
1926 スカラ座でプッチーニ「トゥーランドット」世界初演。
1927 メンゲルベルグとともにニューヨーク・フィルの常任指揮者に就任。
この年に初めてラジオ放送でオーケストラを指揮。
1929 スカラ座とともにウィーンとベルリンへ歴史的引越公演。その後、スカラ座を辞任。
1930  ドイツ人以外で初めてバイロイト音楽祭で指揮。「タンホイザー」と「トリスタン」。ニューヨーク・フィルの首席指揮者に就任。
1931  イタリアのボローニャでコンサート前にファッシスト党歌の演奏を拒絶したため暴行を受ける。ファッシスト体制下のイタリアでは一切演奏しないことを決意。バイロイト音楽祭で「タンホイザー」と「パルシファル」を演奏。
1933  ヒトラー政権獲得によりバイロイト音楽祭での演奏拒否。
ウィーン・フィルに初めて客演。以降37年まで続ける。
1935  初めて英国のオーケストラ(BBC交響楽団)を指揮。ザルツブルグ音楽祭で「フィデリオ」「ファルスタッフ」を指揮。
1936  ニューヨーク・フィルの首席指揮者を辞任。自費でパレスチナにゆき、ユダヤ人で組織されたオーケストラを指揮。
1937
(60歳)
彼のためにニューヨークでNBC交響楽団が組織、首席指揮者として17年間在職。
1938  オーストリア政府のナチス迎合によりザルツブルグ音楽祭での演奏を辞退。トスカニーニの参加により始まったルツェルン音楽祭に初参加。
(1939〜45 第2次大戦)
1946  第2次大戦で倒壊したミラノ・スカラ座の再開記念コンサートで指揮。
1948  NBC交響楽団とテレビ初出演。
1952  ヨーロッパを一時訪問し、イタリア(スカラ座)英国(フィルハーモニア管弦楽団とロイヤル・フェステイヴァル・ホール)で夫々最後の公演。
1954  4月4日 カーネギー・ホールでNBC交響楽団を指揮して引退。
1957  1月16日 ニューヨーク、リヴァデールの自宅で死去。(89歳)

(「トスカニーニの時代」ハーヴェイ・サックス著 高久暁訳 音楽之友社 所収の年譜より引用)

 トスカニーニが生きた時代とは、一体どんな時代だったのだろうか。
 作曲家の中では、彼が尊敬するオペラの両巨頭ヴェルディとワーグナーを初め、グノー、J・シュトラウス、ブラームス、サンサーンス、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、マスネ、ボイート、カタラーニ、ヤナーチェック、フンパーディング、エルガー、レオンカヴァルロ、プッチーニ、ドビュッシー、マスカーニ、R・シュトラウス、シベリウス、チレア、ジョルダーノ、レハール、ラフマニノフ、シェーンベルグ、ラヴェル、ヴォルフ=フェラーリ、レスピーギ、ストラヴィンスキーらは皆第一線の現役であり、上記の中で レオンカヴァルロ、プッチーニ辺りからは年齢的にもトスカニーニとほぼ同時代またはそれ以降といってもよい。当然のことながら、初演の数も多く、立場上、作曲家に対しても直接種々の提言を行っている。
 もう1つ重要なことは、とくに20世紀前半は芸術家として否応なしに2つの大戦とともに、ファッシストやナチスという独裁政権と直接対面せざるを得ず、「芸術か政治か」の厳しい2者択一から逃れ得なかったことであろう。
 トスカニーニの場合、この命題に対しては竹を割ったように明確だった。即ち芸術と政治を分けて、芸術が政治より上であるという考え方には全く承服できなかった。この点でも、フルトヴェングラーとは立場を異にしている。
 例えば、第1次大戦が勃発して祖国イタリアが参戦するや、48歳になった彼は一切の仕事を中止。戦時中はチャリティ・コンサートのみに出演し全ての収入を基金に寄付した。無収入で自身の生活維持が出来なくなったため家まで売却している。1917年には、軍楽隊を率いて前線に赴き、自軍の敗走の最中も、その鼓舞のために指揮をした。戦後はその功により勲章を与えられた。
 さらに第2次大戦中、彼が独裁者ムッソリーニに対してとった行動については、あまりにも有名であり、ここでの詳述は避けるが,もし興味のある方は、例えば上掲した「トスカニーニの時代」第5章「トスカニーニとムッソリーニ」を一読されたい。戦争の最中は、やむを得ずアメリカに滞在するが、その間もジッとしてはいなかった。亡命イタリア人の組織を作ってその会長となり、ヨーロッパからの難民救済に当たる傍ら、頻繁にチャリティ・コンサートを行って基金を募った。トスカニーニは、政治的プロパガンダを含め、出来ることを何でもやったのである。
 そして終戦となるや、連合軍によって破壊されたスカラ座再建のために100万リラを寄付したり、特別コンサートを開いて収益金をイタリアの孤児救済組織に寄付した。敗戦から僅か1周年の1946年、早や再建なったスカラ座での最初の公演を指揮するためトスカニーニは帰国を決意する。5月11日、80歳を目前にした彼は、16年振りにスカラ座の舞台に立った。この時は全てイタリアの作曲家の曲が取り上げられ、コンサートの様子は全世界に放送された。最後の曲が終わったときには、この老雄に対する惜しみない賞賛の嵐が30分以上も止むことなく続いたという。
 元々オペラのスペシャリストとしてスタートしたトスカニーニは、1920年代に、スカラ座の全盛期を築いたが、ムッソリーニと衝突してイタリアを去ったのちは、自ら望んでオペラから離れ、コンサート指揮者としての活路を見出すようになる。とくに1937年、ニューヨークに彼自身のために創られたオーケストラ、NBC交響楽団が設立されて以降、この傾向は増々強くなった。
 同時にトスカニーニは、ある意味で大変な新しがりやでもあった。とくにNBC交響楽団は アメリカ3大ネットワークの1つ、NBC放送がスポンサーだったこともあり、ラジオやテレビ放送にも大いに理解を示して協力したし、RCAの傘下だった同楽団とともに管弦楽の分野で膨大なレパートリーの録音を残してくれた。

 今回は、そうした中で彼自身ヴェルディ、ワーグナーとともに最も敬愛して止まなかった作曲家ベートーヴェンの作品から「交響曲第7番」を取り上げたい。しかも、トスカニーニ協会盤などのプライベート盤を含めると、5種類ほどになるこの曲の中でも名演の誉れ高い1936年のニューヨーク・フィルと共演した録音である。ちなみに、彼の「ベートーヴェン好き」は大変有名で、洋上で偶々顔を合わせた作曲家ストラヴィンスキーが、ベートーヴェンを ”はったり屋”と一蹴したことが気に入らず、以降この高名な作曲家とは一切口をきかなかったという逸話が残されている。
 1813年に完成をみたこの作品は、ベートーヴェンにとって、第五交響曲「運命」を頂点とする”傑作の森”から「荘厳ミサ」や「第九」を経て晩年の名作群へと至る所謂 ”転換の谷間”を代表する傑作である。時にベートーヴェン40歳。耳病の悪化とともに体調が最悪だった時期でもあり、しかも1809年にはフランス軍のウィーン侵攻による混乱、さらには未だに特定はされていないが ”不滅の恋人”に対する失恋という厳しい事態にあった。この作品には、そうした苦難を克服しようという強い意志も感じられる。ワーグナーは、この曲を「舞踏の聖化」と呼んだが、各楽章で多彩にリズムが躍動するのが特徴。その中で第2楽章は、比較的緩やかな3部形式だが、明るいトリオを挟んで「葬送行進曲」を思わせるような力強く重厚に突き進む主旋律が印象的である。
 名曲だけに幾多の名演が存在するが、トスカニーニでは、NBC交響楽団との1951年録音、ワインガルトナー/ウィーン・フィルの36年録音、フルトヴェングラー/ウィーン・フィルの50年録音、ワルター/コロムビア交響楽団の58年録音、クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団の60年録音の6種を俎上にのせて、作曲家の細かなテンポ指示に基づいて各小節毎に比較・分析した結果が偶々上掲書「トスカニーニの時代」第11章に掲載されている。結論は、楽譜の指示に基づいた最も忠実な演奏が、このトスカニーニ/ニューヨーク・フィルの演奏だとしているが、同じ分析結果、いろいろな点で比較的似ているのが、フルトヴェングラー/ウィーン・フィルだったというのが意外だった。
 確かにこのニューヨーク・フィルとの演奏は、同じ指揮者の51年録音のようにやや硬直したものではなく、リズムの処理にも柔軟性があり、流れるようなしなやかさが随所に感じられる。流石に録音は古いが、トスカニーニの偉大さを示すこの作品のスタンダードとなるべき名演の1つであろう。

 ジャケットは、レイ・L・ジャクスン撮影によるトスカニーニの肖像写真。闘志を内に秘めたいかにも精悍な風貌である。この第7交響曲を録音したころ(彼が70歳前後)のものであろうか。

 


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