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第066回 2007/12/15
「演歌の女王」美空ひばり、広島で平和を歌う

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美空ひばり『不死鳥 ー 美空ひばり in TOKYO DOME』

曲目 終わりなき旅/悲しき口笛/東京キッド/越後獅子の歌 以下 人生一路/黄昏 まで全39曲(本文参照)

美空ひばり(歌)ひばり&スカイ、東京室内楽協会ほか/チャーリー脇野(指揮)
(1988年4月11日  東京ドームでのライブ)

日本コロムビア COBA-4137 (DVD)

 


 師走ともなると大晦日恒例のNHKの「紅白歌合戦」が近づくせいもあるのだろう、このところ何故か一世を風靡した後 足早に他界してしまった演歌歌手、美空ひばりのことを頻(しきり)りに思い出す。加齢現象の一つでもあろうか。
 筆者は決して熱烈な演歌ファンというわけではないのだが、多分同じ年齢の同時代の歌手として、互いに子供のころだった戦時体験を含めて敗戦直後から昭和という激動の時代を共有してきたという実感がそうさせるのかもしれない。同じ世代でやはり50歳少し前に亡くなった劇作家の寺山修司も確か同じようなことを何かで述べていたが、そうした感慨は多分にセンチメンタルなものであろうと思う。
 今年(2007)はまた、もう18年も前に亡くなった美空ひばりが、そのまま生きていれば70歳いうことで、NHKを含めTV各局で生誕70周年と銘打った彼女を偲ぶ特集が何回か放映されたりしたから尚更だった。

 美空ひばり、本名加藤和枝。終戦後間もなく未だ10歳にも満たない子供のころから、当時人気絶頂だった笠置しず子の物まねからスタートして、まるで大人顔負けの無類に上手い歌唱力により、当時娯楽に飢えていた大勢の人々の趣向にも合ったのであろう、アッという間に天才少女歌手としてスターダムにのし上がっていった。
 僅か9歳で地元・横浜のアテネ劇場での初舞台、11歳で横浜国際劇場出演、12歳のときには芸名を美空ひばりに変えて、3月、東横映画「のど自慢狂時代」で映画初出演、8月、初のオリジナル曲「河童ブギ」の吹き込み、9月には、松竹映画「悲しき口笛」に出演し同名の主題歌が全国的に大ヒットとなる。10月、日本コロムビアと専属契約を結ぶのだが、このとき彼女は未だとりわけ小柄な小学生にすぎなかった。
 七色の声といわれた多彩なウラ声とこぶしの効いた巧みな歌い回しを存分に駆使して次々にヒット曲を量産しながら常に演歌の世界に君臨。平成元年6月に亡くなったが、他界する最後の瞬間まで彼女は間違いなく日本の歌謡界を代表する女王であった。
 生涯にレコード化した歌は1、000余曲、出演映画150余本、その間の舞台出演は数知れず。

 当然のことながらそのヒット曲も数えきれないほどだが、ここでは彼女が死の2年前の1988年4月、病気からの再起を期して東京ドームで5万人の大観衆を集めて開催された「不死鳥コンサート」から40曲あまりをピックアップすることにしたい。何れも間違いなく彼女自身のヒット曲であり、ほぼ年代順に歌われていたので、以下それらの曲を作曲年代順に列記する。
 尚、今回のコラムでひばりの代表盤として取り上げたのも このときのライブ公演を完全収録したDVDとした。

「悲しき口笛」(1949)「東京キッド」「越後獅子の唄」(50)「私は街の子」「あの丘超えて」(51)「リンゴ追分」「お祭りマンボ」(52)「ひばりのマドロスさん」「伊豆の踊り子」ーこの年、第5回紅白歌合戦に初出場(54)「波止場だよお父つぁん」(56)「港町13番地」(57)「三味線マドロス」ー 成人式を迎える(58)「初恋マドロス」(60)「鼻歌マドロス」「車屋さん」「ひばりの渡り鳥だよ」(61)「ひばりの佐渡情話」ー11月 小林旭と結婚(62)「柔」ー 6月 小林と離婚(64)「悲しい酒」(66)「真っ赤な太陽」(67)『人生一路」「涙」ー第21回紅白歌合戦で司会(70)「ある女の詩」(72)「俺達の歌今どこに」(78)「おまえに惚れた」(80)7月 母・喜美枝死去(81)「裏町酒場」ー2月 親友・江利チエミ死去(82)10月 弟・哲也 心不全で死去(83)「愛燦々」ー 4月 弟・武彦死去(86)「みだれ髪」「塩屋崎」ーひばり、4月に入院し8月に退院。この2曲は再起第一作だった(87)
 以下の7曲は、この東京ドーム公演のために作られた曲のようである。「さんさ恋しぐれ」「KANPAI」「花蕾」「暗夜行路」「裏窓」「NANGIやね」「終わりなき旅」(何れも1988)そして、文字通りひばりにとって代表作であり最後のヒット曲となった「川の流れのように」が、このドーム公演のあとに作られている。従って、このドーム公演では歌われていない。
 しかし、病み上がりの状態で、たった一人で40曲あまりを歌い切ったこのドーム公演は、全ての聴衆の心を揺さぶるような大熱唱の連続であり、あらゆる意味で、不世出の歌手、美空ひばり生涯の集大成と言ってもよいだろう。

 この公演の2年後、1989年6月24日、間質性肺炎による呼吸不全により他界。享年52歳。翌々26日の葬儀には横浜の自宅から斎場までの沿道を1万2千人のファンが埋め尽くし、ひばりの死を惜しんだといわれる。
 ひばりの熱烈なるファンだったルポライターの竹中労は、その著書「美空ひばり」に「歌と人、歌と民族、歌と歴史は、まさにわかちがたき一体として存在する」と書いているが、ひばりの歌には、少なくとも我々と同じ世代以上の日本人に対して根底から強烈に訴えかける何かがあった。それは、彼女の歌う演歌が、多くの日本人に内在している農耕民族特有の保守的で どこかドロドロした土着的民族性に深く根ざしていたため、その真情を激しく揺さぶったからであろう。
 彼女の死が、演歌の急激な衰退とともに年末の国民的行事「NHK紅白歌合戦」の視聴率低下現象などとも決して無関係ではなかったように思われるのだ。

 閑話一題。昨年(2006年)、ひばりの17回忌を記念して「美空ひばり 平和をうたう ー 名曲「一本の鉛筆」が生まれた日」(小笠原和彦著 時潮社)という一冊の本が出版された。
 1974年8月9日に開催された広島での第1回平和音楽祭で反戦歌「1本の鉛筆」を歌ったひばりにスポットを当てたもので、著者は一体誰が彼女に反戦思想を吹き込み、最終的に誰の意思でその出演が決定されたかを解き明かしていく。生涯の師、川田晴久や古賀政男か、あるいはルポライターの竹中労か、まるで推理小説のように詳細に論証が展開されるのだが、最後は、彼女自身と一卵性母子ともいわれた母・喜美枝の2人による戦時中の横浜大空襲や父親の出征など直接経験した辛い戦争体験が揺るぎなくベースにあって、極く自然に2人だけで決断し参加に至ったという当たり前の結末で締めくくられていた。

 立場上、自身の政治的立場はあまり鮮明にはしなかったひばりだが、多くの日本人同様、生涯、反戦・平和を願う強い気持に変わりはなく、最後までこの点では自分の意思に忠実に従って活動を続けた。死の2年前、上記の東京ドームでのコンサート直後のの88年の夏にも 彼女はこの広島平和音楽祭に参加している。
 これもあまり知られていない事実だが、生前ひばりは福祉事業を初め数々の寄付行為を行っており、いまもその遺志を継いでユニセフなどへの寄付が続いているということである。
 最後に、この広島で歌われた「一本の鉛筆」の一節を掲載してこのコラムを終えたい。

 あなたに 聞いてもらいたい  あなたに 読んでもらいたい
 あなたに 歌ってもらいたい  あなたに 信じてもらいたい

 一本の鉛筆が あれば  わたしはあなたへの 愛を書く
 一本の鉛筆が あれば  戦争はいやだと 私は書く

 あなたに 愛をおくりたい  あなたに 夢をおくりたい
 あなたに 春をおくりたい  あなたに 世界をおくりたい

 一枚のザラ紙が あれば  私は子供が 欲しいと書く
 一枚のザラ紙が あれば  あなたをかえしてと 私は書く

 一本の鉛筆が あれば  八月六日の 朝と書く
 一本の鉛筆が あれば  人間のいのちと 私は書く

      (松山 善三 作詩  佐藤 勝 作曲)

 この歌を歌う前に ひばりは観客に向かって次のように静かに語りかけた。
 「昭和12年5月29日生まれ。本名、加藤和枝。私は横浜で生まれました。戦時中、幼かった私にも、あの戦争の恐ろしさを忘れることはできません。これから2度とあのような恐ろしい戦争が起こらないよう、皆様とご一緒に祈りたいと思います。茨の道がつづこうと、平和のためにわれ歌う。この広島平和音楽祭を記念して、新しい歌が生まれました。これは、私にとりまして、これからも永久に残る大切な歌でございます」

 このDVDカヴァーのひばりは、篠山紀信によって東京ドームでのコンサートの際に撮影されたものである。


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