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第009回 2006/02/01
ホークとハリー ─第2次大戦最只中に記録された名演

DISC9

日マーキュリー BT-5254(M)
『コールマン・ホーキンス 1944 VOL. 1』
(KEYNOTE JAZZ SERIES/1978)

アイ・オンリー・ハヴ・アイズ・フォー・ユー/ス・ワンダーフル/ビーン・アット・ザ・メット/ナイト・アンド・デイ/メイク・ビリーヴ/ドント・ブレイム・ミー/ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・スィングス/ハレルヤー など 計12曲

コールマン・ホーキンス5重奏団, コールマン・ホーキンス4重奏団 & コールマン・ホーキンスとオール・アメリカン・フォア
(録音:1944年1月31日, 2月17日, 5月29日 ニューヨーク)


 ジャズ史上“テナー・サックスの父”と呼ばれたホーク、またはビーン(頭の俗語)こと、コールマン・ホーキンスは、1901年ミズーリ州セント・ジョセフの生れ。10代からサイドマンとして修業の後、1923年以来10余年間フレッチャー・ヘンダーソン楽団に在籍。この期間にリード楽器としての独自のテナー・サックス奏法を確立した。得意のコード・チェンジを存分に駆使しながら、一方ではハードにドライブする激情的なリフを 他方では美しい装飾音をちりばめたバラードをもって、当時流行のジャム・セッションでも当たるを幸い、なぎ倒して向かうところ敵なし、ニューヨークを舞台にテナーの王者として君臨することになる。
 1934年以降の5年間は、ヨーロッパ滞在。フランスでは、ジャンゴやステファン・グラッペリなどと共演し、ヨ−ロッパのジャズ界に大きな影響を与えた後、1939年に帰国。時あたかも第2次世界大戦の前夜であった。

 片やハリー・リム。1919年オランダ領だったバタヴィア(今のインドネシア)のジャカルタ生まれ、ジャズの熱狂的愛好者だった彼は、地元ではジャズ誌の編集をしたりしていたが、30年代の後半、オランダ経由、ホーク同様、これまた1939年の大戦勃発直前に渡米を果たすこととなる。
 1943年には、フォーク関連レコード制作のためエリック・バーニーにより設立されていたキーノート・レーベルの経営権を取得し、これからハリーの大活躍が始まる。
 即ち、46年までの戦中から戦争末期、オーナー兼プロデューサーとしてホーキンス、レスター、ロイ・エルドリッジ、テディ・ウイルソンなどの中間派の大物ミュ−ジシャンや、チャーリー・シェイバーズ、ミルト・ヒントンなどのサイドマンやスタジオ・ミュージシャン、さらにレニー・トリスターノなどの新人を何れもリーダーに登用して、300テイク以上の膨大なSPレコードを制作した。ジャンルもディキシーからモダン前夜を含むが、やはり多いのはスイング時代のトップ・スターによる小編成コンボだった。いずれもが時期が時期だけに画期的な録音となり、ハリーがジャズ史上伝説的名プロデューサーと呼ばれる所以でもあろう。
 中でもホーキンス、レスターをリーダーにした小編成グループ、トリスターノのファースト・リーダー・アルバムなどが名高いが、ここでは、当時絶好調のホークを起用した1枚を取り上げたい。いずれも、大戦中の1944年の収録で、どのテイクもピアノはテディ・ウイルソンが受け持ち、クィンテットには、親友エルドリッチがトランペットで参加している。

 本アルバムの選曲及び編集を担当された粟村政昭氏によれば、特に最後の4曲(上記“メイク・ビリーヴ”以下の4曲)は、当初から通常の25センチではなく、30センチSP収録が予定されていた由。そのせいか、リーダー以下とくに気合いが乗った演奏で、ソニー・ロリンズが絶賛した通り、ホークの生涯でも最良の演奏の1つ。録音状態も非常に良好。またレスターの場合、その直後の徴兵以降、精神的に完全におかしくなったことを考えると、ホーク以上に、この時期のベストの演奏が残されたことに感謝すべきであろう。しかし、このキーノートもプレス会社のトラブルなどで問題続出の後、ハリーは、1947年に退社。翌1948年にはマーキュリーに権利を含めて売却されてしまう。
 その後のハリー。1955年キーノートの復活などを試みるが上手く行かず、結局、56〜73年まで不本意ながら、ニューヨークのレコード店サム・グーデイに店員として勤務することになる。

 筆者との出会いは、ちょうど1960年代中ごろだった。会社から店までは数分の距離だったし、お互いロング・アイランド住いで家がごく近くだったこともあり、一時期はほとんど毎日のように顔を合せていた。ジャズの聴き方ABCから始まって、いわば師匠みたいな存在だったが、こうした関係は1973年、新人の発掘を目的にした本格的ジャズ・レーベル、フェイマス・ドアを立ち上げるまで10年近く続くことになる。小柄で短髪、何時も蝶ネクタイで黒スーツが定番。普段は一見クールであまり笑わないが、気を許すようになるとすこぶる面倒見がよかった。69年5月だったか、ホーキンスが亡くなったので、葬式に一緒に来ないかと誘われたことがある。生憎、仕事の都合で同行できなかったのがいまだに残念である。ハリー自身の訃報に接したのは、筆者が日本に帰国後、暫く経った1990年7月のことだった。(享年71歳)

 その死の4年前、1986年日本では、児玉紀芳氏監修で、未発表の115曲を含む334曲をLP21枚にまとめた『コンプリート・キーノート・コレクション』が発売された。(日本フォノグラム 18PJー1051/71)これこそ、ハリーへの何ものにも代え難い最高の餞(はなむけ)であろうと信ずる。
 本稿で取上げたレコードも日本で制作されたものだが、カヴァー・デザインには、ヘイクロー・コバヤシ、イラストには、ムネヒロ・ウチミチの名前がクレディットされている。